K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

雑談

好きなことを喋る。喋れる。他者との繋がりにおいて、それ以上に幸せなことを私は知らない。
一方的に考えを押し付けるのではなく、相互に意見を交わして話題を次々と成長させていけるなら、より理想的だ。
今日は、そんな至福の空間を経験することができた。

 

会話のほとんどは他愛のない雑談だった。本題は別にあったし、ただ仕事のことを考えるなら一時間に満たない時間でも十分だったかもしれない。けれど実際には二時間半近く、私にとって大きな刺激となる空間がそこにあった。
よく言われることかもしれないが、よりよいものを生み出すには余白が大事なのだ。「余裕」とか、「無駄」と言い換えてもいい。
必要な無駄。矛盾しているようで、矛盾していない物事の本質がそこにある。優れたアイデアは雑談の中にこそ芽生えるものだ。

会ったのはおよそ一か月ぶりだった。先月から現在までの間に何があったか。何に意識を割いていたか。会話の取っ掛かりは直近の出来事である場合が多いけれど、雑談が本領を発揮するのはその先の脱線からだ。
実に様々なジャンルについて言葉を交わしたように思う。この人が相手でなければ話さなかったようなこと、私が相手でなければ話されなかったようなこと。私と相手の間で行われるキャッチボールは、今までに感じたことのない噛み合い方をしていた。なんて、尊いのだろう。
これほどまでに自分の「好き」をぶつけて、それに呼応して相応の「好き」が返ってくるということは、これまでにあまり経験したことがなかった。
「好き」を投げたら、それを受け止めるのに精一杯で相手が主張する機会を奪ってしまう……そんな悲劇が、過去の私と友人の関係においては当たり前のことだった。
だからこそ、ようやく巡り会えた「好き」の相互作用が可能な相手は、おそらく私の人生にとって最も大きな存在感を放つ一人となることだろう。

雑談というのは不思議なもので、話した内容の一つひとつは本題から外れていて、ただ文脈に合わせて出てきた言葉でしかないのに、後から反省してみると、全体を通じてはしっかりと目的を果たしているのだ。
こんな話ばかりしていては、せっかく互いに時間を割いているのに課題が解消されないではないか……そんな心配がどこかになかったわけではないけれど、終わってみればすっかり杞憂であったことがわかる。
それは雑談における無数の要素が絡み合い、何かひとつの大きな価値ある塊となるイメージだ。ミクロな視点ではその場で言いたいことを言っただけ、しかしながら視野を広げてみると、そこにあるのはあらゆる目的を達成可能な価値観の結晶なのだ。いつの間にか疑問点は解消され、コミュニケーション不足は補われ、私の頭の中は満足感に溢れている。
本質的な部分で相性がいいのかもしれない。心から楽しかったと言える時間だった。

雑談というのは、言葉にしてしまうと非常に陳腐なものだが、実際に交わされるやり取りは莫大な情報によって成り立っている。
「雑」というだけあって体系立てたり整理したりするのは至難の業で、単なる言語を使った意思疎通以上の何かが発生する。声音や表情、その場の空気ですら包含する雑談という営為は、昨今のオンライン会話では得がたい経験を双方にもたらすものだ。
あらためて考えると、私はとても恵まれている。だって、真の意味で雑談できる相手がいるのだから。
あの人と個別に会話するのは初めてではないけれど、今日はこれまでとは違った特別なものを感じた。下手に取り繕う必要のない、そのままの自分を出すことができたからだと思っている。

もはや私にとって、あの人は特別な存在となっているけれど、しかし立場はあくまで対等であるし、今後も並んで歩きたい。
私はあの人にとって、特別でいられるだろうか。そもそも特別でなければ、声をかけられることはなかったかもしれないけれど、それでもなお、将来に向けた「特別」を意識しないわけにはいかない。
……ここまで「特別」にこだわっていると、なんだか某作品のようだなぁと思わないこともないが、でもそういう関係に憧れるのって、悪いことではないだろう。
人生は、自ら彩ってこそだ。