K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

友人

気楽に人と会えない状況が続いているから、昨年までと比べて孤独感の強い生活になっている。これは個人的な話ではなくて、世界中の多くの人に当てはまることだろう。
そんな状況だからこそ、オンラインで交流を図ろうとする人は珍しくなくて、これまでより却って話す機会が増えた、なんてこともあるかもしれない。


私の場合は、孤独であることは昔から慣れているし、特につらいとか苦しいとかではないからどうでもよいのだけれど、それでもこういう状況下で知人の動向がまったく気にならないわけではない。
残念なことに、私に対する直接的なアクションは今のところ知り合いの誰からも一切ないため、TwitterでTLを見るくらいしか情報を仕入れる術がない。そして気づく。彼らは、それなりに誰かと交流をしているのだと。

私には、はたして友人なんてものが本当に存在したのだろうか。数年の付き合いになる連中で、いい具合に気心も知れていると思っていたが、こちらが勝手に友人だと思い込んでいただけで、実際のところは偶発的な関係性がたまたま長続きしていただけなのではないか。
こうやって長期的に交流が途絶えてしまえば、「ちょっと仲のいい知人」程度の私なんて、もはや誰も関わろうとはしてこない。

不安ならば、自ら誘ってみればよいという意見は当然あるのだけれど、私はこれまでことごとく、他人の作った流れに乗るだけの人生だった。あれをしよう、ここに行こう、という提案は、いつも決まった人間が与えてくれた。
ならばこれを機に、勇気を出してみれば……とは思う。思うのだが、どうしても動き出せない。断られたらどうしよう、変なやつだと思われないだろうか。
いや、わかってはいるのだ。数年も一緒にいた仲間なのだから、彼らの私に対する印象の一端くらいは察知できている。本気で誘えば、きっと乗ってくれるはずだ。
ゲーム脳的な考え方で、好感度というものがあるとしたら、決して悪い判定ではないと思っている。まぁ、まともな人間というよりは、ちょっと変だけど面白いやつ、みたいな感じではあるだろう。
それでも、やはり自ら流れを作り出すのは難しく思えて、別にわざわざやる必要ないよね、と逃げてしまう。

そもそも、私自身に大きなモチベーションがないというのもある。今は活発に誰かと関わりたい気分ではないのだ。
Twitterなどから垣間見える、彼らの友人同士らしき交流を目にしていると、少し羨ましく思うことがある。どうして、私はあのようになることができなかったのか。考えれば考えるほど正解がわからなくなって不思議ではあるが、一方必然であるとも感じる。
こういう風に独りで自身の思考と向き合って、毎日のように気持ち悪い文章を生み出すような性格だからこそ、私は彼らと長く付き合うことができていたのだろうし、今こうやって関わりを持つことができないのだ。
この関係性は、だから適切な形態を取っているのだろう。そして、今となっては取り返しがつかない。そういうものなのだと受け入れるのが、実際とても楽だ。

もし、何かが変わることがあるとしたら、彼らがふとした瞬間に私のことを思い出して急激に興味を抱いてくれることを期待するか、あるいは私が劇的に変貌するしかないだろう。
定着した人間関係を覆すには、既存のものとな別方向からの大きなエネルギーが必要なのだから。