K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

久々に喋ったら自分の声に驚いた話

直近で知人とまともに会話をしたのが四週間前ということに気づいて、そういえば最近まったく喋っていないなぁと、ふと思った。
前にも似たような日記を書いたけれど、今は発声の機会が人生で最も少なくなっていると言ってもいいくらい、人とのコミュニケーションが非日常な現象へと転じてしまっていることに気づく。

 

注文していた荷物が届いたので、インターホンに向かって「はい」と言った。
不思議な感覚だった。ただの一言なのに。

本来、自分の声なんてものは聞き慣れているはずだから、特別に意識することなんてないのだ。
声を出せば常に耳に入ってくるから、その声がどんな形をしているかなんて、ほとんど考えない。それを商売道具としている人でなければ、自らの声に対する意識は希薄なものだ。

「はい」と言った瞬間に、久々に耳に入ってきたその声。私の声。
こんな声だったろうか。およそ一か月ぶりに認識したせいか、これまでに体験したことのないような違和感があった。
まるで、録音した自分の声を再生している時のような気持ち悪さ。己の一部という感じがしない、根源的な拒絶反応。
これは偏見だけれど、どんなに良い声の持ち主であっても、自分の声が好きという人はいないと思う。何度も聞いて慣れるまでは、どうしても異物感が拭えないのだ。

荷物を受け取って、「ありがとうございました」と言おうとした。
言葉にならなかった。
滑舌とか、そういう問題ではないくらいに、舌の動きと喉の動きが噛み合わない。言いたい言葉が形にならないもどかしさ。
ちょっと喋らないだけで、こんなにも発声に苦労することになるなんて、思いもしなかった。声帯周辺の筋肉が正常に機能しない。このままでは、本当に喋れなくなってしまうのではないか。

当分は一人きりでも大丈夫だと思っていたし、実際のところ、波はあるけれど精神的には大きな問題を感じていない。
対人コミュニケーションが減ることで脳への刺激が足りなくなり、思考の働きが悪くなる可能性がある、なんて日記を書いたこともあったけれど、文章を読んだり書いたりする習慣を続けていけば、それほど勢いよく急激に頭が悪くなることもないだろう。
ある意味で楽観的ではあったのだけれど、その結果、まさか自分の声を忘れてしまうことになるなんて、ちょっと想像力が不足していたのかもしれない。

現実問題としては、このまま発声に不都合を抱えたままでも即座に困る事態に陥るわけではない。だって、人と話す機会がそもそも滅多にないのだから。スムーズに喋れなくなったとしても、それが明るみに出るシーンが現状の生活では想定できないのだ。
しかし、直感的な話になるが、放置しておくのは非常にマズい気がしてならない。人間というのはコミュニケーションによって発展してきた生き物であって、今でこそインターネットを使えば文字だけでも一定レベルの交流は可能だが、本質的には対面コミュニケーションに勝るものはない。
長い目で見た時に、会話能力の低下というのは致命的な欠点になりかねない。言葉が出る出ない以前に、自分の声に驚くくらいなのだから、もうコミュニケーションの前提にすら立てなくなっている可能性すらある。
すぐに必要かどうかは置いておいて、少なくとも発声能力を日常レベルで使い物になる程度には引き上げておいても、損にはならないだろう。

というわけで、どのようにして声を取り戻すべきか、考えてはみたのだが……なかなか上手い手段が思いつかない。
最も簡単なのは会話相手を作ることだが、やれるものならとっくにやっているということで論外だし、なんでもいいから独り言を呟くことを習慣づける方法も考えたが、壁の薄い部屋で隣人に騒音被害を訴えているくらいなのでちょっと憚られる。

声を出すことが問題とならず、難易度も高くない……そんな都合のいい場所があるだろうか。
結論から言えば、カラオケしかないように思った。
学生時代は空き時間にヒトカラに行くことも珍しくなく、そして歌うことは好きだ。
家から駅までの間に複数の店舗があるので店に困ることはないし、せっかく平日の昼間から好きに出かけられる余裕があるわけだ。運動不足解消にもなるし、誂え向きではないか。

なお、近場のカラオケ店を検索してみたところ、先日の宣言によってどこも休業中の模様だった。
ああ、なるほどな。制限されている実感。こういうことか。
こうして今日もまた、思い通りに進まない人生の難しさを知る羽目になったのだった。