K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

レベルアップを自覚する時

人の成長というのは、ゲームみたいにわかりやすく「Level Up!」のような表示が出るわけではないから、能力の向上を正確に把握するのは簡単ではない。
たとえば学力ならペーパー試験、走る能力ならタイムを測れば、以前の結果と比べて相対的な伸びを確認できるけれど、しかしながら特定のタイミングで「成長した」という自覚が得られるわけではない。
気づいたら必要な能力が身についていた、というパターンがほとんどだろう。

 

客観的に明らかな結果が出るものなら、そうやって過去と比べることで成長を知ることはできる。
けれど、人生における「成長」が関わる事柄というのは、何もわかりやすいものばかりではない。というより、生きていて目に入ってくるもの、出会うもの、日常的な営み等々……ほぼすべてに「初めて」や「慣れ」がある以上は、無数に成長の機会が存在しているとも言える。
そして、たいていは数値化なんてできるものではない。特に意識することはないけれど、なんとなく生きていて、なんとなく成長しているのだ。

わかりやすいので学力という側面から考えていくと、記憶の大部分は学生時代に勤しんだ、勉強に基づいた試験結果や偏差値による喜怒哀楽が思い出される。
結局、そこで得た大半の知識は目の前の試験においてのみ活かされるだけで、具体的に人生に役立ったという実感が得られることはほとんどない。仮にあるとすれば、それは幸運なことだと思う。*1
それは日本社会に生まれ育ち、普通の義務教育から大学卒業までを歩んできた人にとっては仕方ないところがある。
ただ、長らく「学校の勉強」というものから離れて、ふと過去に学んだ出来事を頭の奥底から引っ張りだそうとしてきた時に、私は自らのレベルが確実に上がっていた事実を知ることができる。

おそらく多くの人にとって最も一般的なものは、小学校で習う算数や漢字についての知識だろう。
まだ物心がついているかも怪しいくらいの児童であった私は、初めて目にする文字に苦戦した。ようやく足し算や引き算ができるようになったと思ったら、九九とかいうわけのわからないものを覚えさせられた。毎日のように繰り返し暗誦する。非常に奇妙な光景だったように思う。
そうやって、なんとかできるようになったと思ったら次々と新しい課題が降ってくるものだから、私は既に習得した教養について振り返り、その定着をあらためて実感する場を設ける余裕なんて、まったくなかったのかもしれない。
当然のようにできるようになっていることを……つまり、絶対的にレベルが上がっていることを自覚するのは、まったく環境が変わってからのことだった。

中学に入ってから学び始めたものの、わけがわからず赤点ギリギリだった英語。数年後には受験勉強という、一般教養程度の読み書き能力を手に入れるための努力が求められる期間があったわけだが、英語力の定着を知ったのは大学に入って随分と経ってからだった。
日常的に英文を読む生活を営んでいるわけではないため、語彙力は日に日に落ちていく。単純な学力で言えば、あの忘れもしない受験日が頂点だったと言っても差し支えない。
けれど、基礎能力としての英語力は、いったん身につけたら失うことはないのだ。中学や高校の頃には読むのに苦労した英文を、今では辞書さえあれば読めないことはない。言葉は忘れても、文法が抜け落ちることはないのだ。
純粋な学力のレベルアップ。それを意識できたのは、継続的な学習というものから解放されて、しばらくの時間を置いてからだった。


聞いた話によると、世の中には義務教育を終えているにもかかわらず、九九の計算が怪しかったり、本をまともに読めなかったり、日本語の文法すら覚束なかったりする人間がいるらしい。
生きていたら当然のように、無意識のうちに刷り込まれているはずの学力がないという感覚が、いったいどのようなものなのか、想像するのが難しいのだけれど、きっと幼い子供のように視野が狭く思考が単調で、ひょっとすると悩みも少ないのかもしれない。
社会で生きていくのは難しいようにも感じるが、ある意味で幸せという可能性もある
まぁこれまでの私の人生において、その手の人間を自分の目で観測したことがないので、とりあえずは存在しないものとする。

うーん……Twitterあたりで調べたら、たくさん見つかりそうなのが怖いところだが……ともかく、普通の典型的な成長というテーマに戻ると、それを自覚できるのは奮闘している時よりずっと後のことになるのだろう、という話だ。
上手くいかない、どうすれば上達するのだろう。そういう日々の細かい苦労や悩みが、まるで気にならなくなる頃。日常で大変だと思うことの水準が飛躍的に向上し、ぶつかる壁の高さが桁違いになるくらい大きくなった時。
ようやく、自らの能力が絶対的に底上げされていることに気づけるのだ。

気の遠くなるような願いだけれど、たとえば十年後や二十年後に、今の悩みがちっぽけなものに感じられるようになっていたら、たぶん人生の歩み方に後悔はないと思っている。
そのように生きていきたい。

*1:ちなみに私は主に文章を書くという点において、高校時代の「国語」で学んだ教養が多いに活きているという自覚があるため、それなりの幸せを感じている。