K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

髪と声

あまりにも前髪が鬱陶しいので、髪を切りに行ってきた。
前回からは約二か月ぶりで、個人的な間隔としては平均的なものなのだけれど、どうにも今回は髪の伸びが速かったらしい。担当の美容師に言われて初めて自覚したのだが、確かに相当もっさりしていた。
外に出ない生活が続いているから外見に気を遣う機会が減り、身だしなみへの意識が薄らいでいるのを実感する。

 

そういえば、こうやってまともな会話を他人とするのはいつ以来だろう。
店員と交わす会話は、髪型についてのものを除けば機械的なやり取りばかりで、何かを話したという特別な感覚はない。
引っ越してくる前に通っていたところはお喋りな店員の相手をするために口数が増えたものだったけれど、今の担当は雑談が極めて少ないから、基本的に黙々と切られるのを待つのみだ。
それでも、人と話すこと自体が非日常の行為となってしまっている私にとって、その僅かなコミュニケーションにさえ価値を見出さずにはいられなかった。

前回、およそ二か月前にその店員と会話してから、現在までの間に会った人間はほとんどいない。
というか、一人しかいない。
それは三月の終盤、ちょうど髪を切ってから数日後のことだった。思えばあの日が、今ところ今年のハイライトと言ってもいい。たった数時間の間に喉が痛くなるほど交わした数々の会話は、まさに充実感の塊だった。
一方で、この二か月の間に喋った回数というのはリアルに片手で数えられる程度かもしれず、それだって買い物の会計時に発する一言二言に過ぎない。
それは、もはや会話というよりは身体的な反応でしかなく、コミュニケーションとは言っても最低レベルのもので、だから言葉を交わした出来事としてカウントするのは、ちょっとどうかと思うのだ。

意外に感じたのは、まともに喋っていなかったわりには、普通に話すことができた点だ。
てっきり、喉にある筋肉が正常に働かず、思った発声ができないだろうと考えていた。
実際この数週間は、宅配などのインターホンに対する咄嗟の応答ができていなかったし、声の出し方という本来は意識しないようなことに頭を悩ませていたので、発声自体に問題がなかったことには、若干の拍子抜け感があった。
ただ、喋ってみて思ったのだけれど、微妙に違和感があるのだ。これは本当に自分の声なのだろうか。もっとこう、違う声だったような。そういった疑問とともに、かつてどのように違和感なく人と話していたのか、思い出せなくなっていることに気づいた。
はっきり言うと、コミュニケーション能力が極端に低下している。そして、自分の声を忘れるくらいに会話から疎遠になることで、どうやら「話す」という行為が本格的に非日常の領域に移ってしまったらしい。


何度か日記にも書いている会話不足の悩みは、相手という絶対的な存在が必要である以上は自らの意思によって即座に解決できる問題ではないため、今後もたびたび課題として取り上げることはあるだろう。
まぁ喉の機能だけを心配するのなら、一人でも可能な対処方法はあるから、随時検討していきたいところではあるが……前に考えたアイデアではヒトカラに行く、なんていうのもあったけれど、何やら現状では難しそうに思える。
いつになったらカラオケ店が営業を再開するのか、先行き不透明で困ったものだ。

こうやって考えてみると、ほとんど無関係だと思っていた某宣言も、確実に私の生活に影響を及ぼしていることがわかって、とんでもなく生きづらい世の中になっていることを今さらのように思い知らされる。
道を外れてマイペースに生きる私でさえネガティブに思うのだから、世の中にたくさんいる「普通の人」が受けている精神的ストレスは、もはや計り知れない。