K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

人間関係構築の壁

これは対人関係に乏しい私の単なる妄想になるが、人と人との関係というのは非常に繊細なもので、基本的に構築は難しく瓦解は簡単という性質を持っていると思う。これは、世の中を観察している限りでは思い込みではないだろう。
子供や学生であれば、気分によって友人の契りを結んだり絶交したりすることが可能であるから、行動にそれほど大きな制限は伴わないはずだけれど、歳を重ねるにつれて他人との関わりは容易に変形させられるものではなくなっていく。
社会的責任や、損得勘定や、あるいは他の人間との関係性。特定の個人と個人の間には、より複雑な事情や背景が介入してくることが珍しくない。

 

互いに一言では説明できないような、複雑な立場から人間関係を新しく作っていくということになると、多くの人が学生までの間に何度か経験するかもしれない「なんとなく仲良くなる」わけにはいかなくなる。
初めから手の内を明かすことはないし、得体の知れない「何か」に対して警戒心を抱くのは当然のことで、それは社会性を身につけた人間の本能と言ってもいいのかもしれない。
大人になってから親しい友人を作るのは困難で、大学時代の友人関係が年老いるまで継続しやすいという傾向は、肌で感じている以上にリアルの現象として存在している気がするのだ。

だから、大人は契約を交わすことになる。特にビジネスでは顕著で、相手の内心が不明でありながらも、建前の主張を相互に承認して一定の形で行動を縛ることによって、不利益を生み出さないように工夫し協調することができる。
そこに真心はないし、見方によっては気持ちが悪い。けれど、それが社会というものの土台となっているのは、疑いようのない事実だろう。
慣れれば、そのほうが気楽で良いという考えも生まれてくるだろうし、人間関係におけるイレギュラーを減らして安定感を作り出すこと自体は、別に悪いこととは思わない。

一方で、社会を支えているすべての関係性が、完璧に契約の上で成り立っていると思うのは間違いだろう。人と人が手を取り合う中に、一切の感情が入らないなんて奇妙な話だ。
機械ではないのだから、たとえ一見するとガチガチのビジネスであっても、どこかしらに良心や信用といった目に見えない曖昧な要素を頼りにしている部分も、確かに存在しているのではないか。
私はまだまだ、そういう世界を十分に知るには若すぎるので、はっきりとしたことは言えないけれど、どうにも年配の層を見ていると、そう思わずにはいられない。

契約の外側で他人に委ねることができるという、そうした尊い信用関係を築くのは、本来は物凄く長い時間が必要だと考えている。
同じ時間や空間を一緒に過ごして、相手の価値観と自らの価値観を少しずつ共有していき、感性や思想に大きな齟齬がないことを無意識的に確認した上で、初めて成立する貴重な人間関係だ。
人工的に生み出すのは不可能で、ある意味で宿命的な力によって形作られた、運命の結晶と捉えてもよいかもしれない。
その間柄はまさに「特別」であり、無関係の人間が口を出せない繋がりというものが、おそらく人の数だけ無数に存在している。普段は見えないけれど、構成材料として隠し味のように、じんわりと社会に影響を及ぼしているものだと考えている。


人間関係というのは表面的にはわからないことが多すぎて、そもそも自然に出来た交友関係の絶対数が極端に少ない私にとっては、新規に構築を目指すことが果てしなく程遠い苦難の道になるようにしか思えない。
Twitterを上手く使いこなせない所以も、そのあたりにありそうな気がしている。

ただ、最近よく思うのは、インターネットというのは、人間と人間の間に存在している障壁を取り払う力があるということだ。
まったく見知らぬ相手であっても、ちょっとした思惑があれば容易にコミュニケーションを取ることができる。対面であれば絶対に無理だろうと思われる積極性を、ネット上であれば苦労を伴わずに発揮できる。
もちろんこれは傾向の話であって、何度も書いている通り私には簡単な行動ではない。そうしたネット上における、なるべく壁を作らない動きが受け入れられるかどうかは、性格によるところが大きいだろう。

そのあたりのリアルとインターネットの違いや、Twitterなどのオープンな場からLINEやDiscordのような閉じた場に至るまで、年代や性別、育ち、適性などによって感じ方は様々だろうし、それぞれにどれだけ依存するかは個人の自由でもある。そして、活用できるなら存分に活用したほうが人生が豊かになる可能性も十分にある。
残念ながら臆病な私としては、いまだに顔の見えない人間と積極的に関わることに対して抵抗感が抜けずにいて、きっとアクティブな第三者によるきっかけなしでは、そうした世界に飛び込むことはできないのだろうと思う。
まぁこうしたツールとの向き合い方は、なんだかそのままリアルにおけるコミュニーケーション能力を反映している気がして、つくづく社会不適合気質を実感することになる。

強制的にそのような状況に陥れば、見動きが取れなくなるということはないだろうと思うし、むしろ普通に使いこなせるとすら思っているけれど、実際には状況のほうからやって来ることはないため、机上の空論なのだった。