K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

引きこもりも外出すれば話しかけられる

暑いので外に出たくなかったのだが、冷蔵庫を開けると飲み物が切れそうになっていて流石に生命の危機を感じたので、日が落ちてから買い出しに行くことにした。
一か月分くらいまとめて買い置きできたらいいのに、一人で持てる量には限界があるから、どうしても週一くらいの間隔で出かけることを余儀なくされる。
ちなみに、散歩は出かけるカウントに入らない。

 

帰り道に、スミマセンと声をかけられた。
日常において他者とのコミュニケーションが皆無の私にとっては、唐突に湧いた対人選択肢であり、なるべく挙動不審にならないよう注意しながら、その声に応じるか無視するかを検討することになる。
その間、コンマ数秒の出来事ではあるけれど、緻密な判断力が要求される。

ふと、昔のことを思い出した。
あれは小学生か中学生の頃だったと思うけれど、友人と一緒に学校からの帰り道を歩いている時に、同じように話しかけられたのだ。
内容はもちろん覚えてないが、結果的には話を聞くべきではなかったと後悔したような記憶だけは、はっきりと頭に残っている。
道を尋ねられただけであれば、それほど悪いイメージにはならないだろうし、きっと金を要求する乞食か、何かの勧誘だったのだろう。

そもそもの話として、今どき道に迷うなんてことは、可能性として非常に低い。もはや誰もが所持していると言っても過言ではない、スマートデバイスを用いれば、見知らぬ土地であっても目的地まで辿り着くことは容易だ。
たまにマップと実態が異なる場所があって、迷ってしまうことはあるかもしれないけれど、人通りの多い都会に限ってそれはないだろう。
それでも道がわからないのであれば交番に行けばいいわけだし、道行く人間に答えを求めるほうがどうかしている。だから、無視したところで心を痛める必要はないのだ。

こういう考えを数年前から持っているため、基本的に外を歩いていて声をかけられても、私には一切のメリットがないと考えている。
どちらかと言えば時間や労力を無駄に失う可能性のほうが圧倒的に高いため、できるだけ声をかけられないように素早くべきだし、他者に無関心であると伝わるような振る舞いを常に心がけるのが好ましい。
だから、咄嗟の判断ではあったけれど、一瞬だけ目を合わせた後は少し申し訳なさそうにして、足早にその場を去ることにした。

 

個人的には年に一度くらい起こるイベントで、過去十年で捕まったのは信号待ちをしていた時の一回だけ。
その際は運良く、ただ道を尋ねる老人だったので適当に案内して事なきを得たけれど、最近は老人もスマホくらい当たり前に持っているし、今後は応じる必要なんてなさそうに思える。

今日、私に声をかけてきたのは外国人で、ある意味で典型的なパターンだった。
困っているから助けてほしい、という雰囲気を感じざるを得ないため、お人好しの日本人は応じてしまうような気もするし、あるいは他者に無関心の東京の人間は応じないような気もする。
偏見ではあるが、おそらく十中八九、宗教の勧誘か何かだと思われるので、後から振り返ってみても無視して良かったという結論になる。

唯一、気になるのは、一日中ああやって通行人に声をかけ続けて、いったいどれくらいの成果が出たのだろうかという点くらいのものだ。