K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

お祝いなんて

なぜ人は祝いたがるのだろう。私にはわからない。
以前に誕生日のお祝いについて否定的なことを書いたけれど、本質的には祝い事全般に対して否定的なのかもしれない。


生きていたら、あるいは他者と交流していたら、さまざまな形で祝う機会も祝われる機会もある。
何かしらのめでたい出来事があって、それを嬉しく思う気持ちから出てくる言葉であれば、別に私は構わないのだ。実際に何かを祝福したいと思うことは、私にも稀にある。まったく理解できないというわけではない。
ただ、年に一度の決まったイベントとか、わかりきっている形式的な祝福というのは、面白味がない。情緒に欠ける。つまらない表現をするなら、心がこもっていないと換言することもできる。

「そういうものだから」と、それをしっかり実行できる人間は、きっと大人なのだろう。規則だから。ルールだから。決まり事だから。まぁどれも同じ意味だが、それらと似たようなものだ。そんなもの、社会に要請される以外の場で強いられたくはない。
だから私は、外圧によって生み出される祝いの言葉など、言いたくもないし受け取りたくもない。極限まで、その機会を避けようとしてしまう。

視点を変えてみれば、あまり接点のない相手と交流する契機だと考えることもできるだろう。年に一度の、相手との縁を確かめるという役割だってあるのかもしれない。
しかし、本当に必要だろうか。形式だけの関係なんて、なくなってしまっても困ることはないのではないか。心から出た言葉ではない、ただ慣習だからと仕方なく送る言葉に、なんの意味があるのだろう。私は、そんなものにエネルギーを費やしたくない。

 

こんなことだから、他者との付き合いが少ないのだ。友人がいないのだ。生涯、孤独を極めそうなルートに突入しているかもしれない状況になっているのだ。
形式的な交流から始まる、本当の付き合いだって、中にはあるかもしれない。なんでもかんでも一見つまらないからと逃げていては、真の価値あるものに触れる機会すら失ってしまうのではないか。

反対の意見を考えてみると、まったく否定ができないから悲しいものだけれど、簡単に性格や行動を変えられたら苦労はしない。直感的にくだらないと思うことを、心が認めるためにはどうしたらいいのか、私には一生理解できないかもしれない。
特に疑問も抱かずにイベントに従事できる人間は、深いことを考えず目の前の出来事を楽しめるタイプの人間なのだろう。そのほうが人生は充実するだろうし、長生きもできるのではないかと思う。
私のように余計な考えが先行して、本来はポジティブなはずの事柄に対して嫌悪感を覚えて拒絶してしまうタイプの人間は、たった一人きりで己の道を突き進む以外に、いったいどうしたら幸せになれるのだろうか。