K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

才能という壁を無視して生きたい

私は器用なので大抵のことは人並み以上にこなせるのだけれど、その中でも向き不向きはある。
適性外の能力が求められる時には多少なりとも苦痛を覚えるし、地の能力では補えないほど苦手なことだって当然ある。
逆に自らのセンスと合っている課題であれば、大きな苦労もなく容易に卓越した結果を残せる場合があり、むしろ歯応えがないためモチベーション維持が難しく、なかなか継続できないという事態に陥ることも少なくない。

 

一般的な会社員が取り組むようなタスクは、もちろん適性の個人差は多分にあるけれど、ほとんどのケースでは経験の積み重ねで対応できるだろう。
言い方が悪いかもしれないが、時間をかけて教育が進めば「誰にでもできる」ことばかりだと思っている。
まぁそうでなければ大半の国民が参加している「社会」というものは回らないし、だから労働の最も大きな難点は仕事内容よりも、環境だったり支払われる対価だったりするのは火を見るより明らかだ。
もっとも、業界トップクラスの人間に関しては知識や経験以外にも独特の能力が要求されるのかもしれないが……仕事に面白味を求めないのであれば、きっとそんなものは必要ない。

私は学生時代、数学が極端に不得手だった。
誰だって満点が取れる小学生時代や、大して勉強に時間を費やしていなかった中学時代は参考外とするが、高校においては国語や英語、歴史科目に関して、客観的に見て非常に優秀な成績を収めていた。
しかし、典型的な文系というわけでもなく、たとえば化学や生物も得意寄りではあったし、親しくしていたクラスメイトの多くが理系だったことから、私の適性は自身でも判断に悩むところがあった。
ひょっとしたら苦手意識が先行しているだけで、ちゃんと取り組めば文理両方問題ないのではないか。
そんな風に考えていた時期もあったけれど、結局最後まで数学だけは駄目なままだったのだ。

ちなみに、駄目とは言っても学年の平均よりは上であり、自分の中で相対的に点数が低かったという話になる。センスはなくても、学校の定期テストくらいなら地頭だけで一定の点数は取ることができる。難関大の入試には通用しないだけで。
まぁいまさら苦手を解消できなかったことの原因を分析する気にはならないし、特に数学自体への興味が求められる生活をしているわけでもないから、今後も駄目なものは駄目だと思って生きていくことになるだろう。
数学ができなくて損をしたことは、受験時の選択肢が少なかったこと以外には、今のところない。

さて、私の家族は親も兄弟も、全員が文系という話がある。
英語なんかは宿題をやっている時に、親に質問することができた。けれど、数学については期待できず、途方に暮れることもしばしばあったように思う。
完全な遺伝とは思わないまでも、調べてみると数学の力は生まれつきの才能という意見が多いようだ。
私には数学の才がない。そう思えば、少し気持ちが軽くなるような気がした。

同じような話として、音楽センスの問題がある。私は数学と同様に、音楽が苦手だ。苦手というか、音を細かく理解することができない。
楽譜は読めないし、仮に読めるようになったとしてもアウトプットに活かせるとは思えない。音楽を聴いていても細部の工夫にはまったく気づけないし、ちょっと専門的な音楽理論の話になると、もうチンプンカンプンだ。
幼少期に音楽系の習い事をしているかどうかで、だいぶ変わってくる部分はあるだろう。しかし、たとえば同時期にピアノを習い始めたとしても、人によって上達具合には差が生まれるわけで、生まれ持った才能による作用は無視することができない。
調べてみたら私の体感だけでなく、これは常識と言えるくらいに当たり前の認識であることが判明した。今から私が音楽で飯を食っていこうとしても、まず無理であることは自明なわけだ。

 

才能というのは、別に目に見えないものだけではない。わかりやすい特徴としては、体格が挙げられる。
一流のスポーツ選手として活躍するには、恵まれた肉体が不可欠だ。食べた分だけ大きくなる。筋肉になる。努力では埋めようのない差が、成長期を通じて明らかになる。
高校くらいまでなら、絶対的な能力差をセンスによって覆すことは可能かもしれないが、プロとして長く続けていくには最低限の肉体的ボーダーはある。それに加えて、上澄みに到達するには才能が必要なのであって、本質的に努力が報われるのは、さらに先の話になるだろう。

他にも、声というのは絶対的な才能だ。手術によって自由に声が作れるのであれば話は変わってくるが、現実はそうではない。
俳優や声優にとって声質というのは重要だし、最近だとYouTuberにも求められる素養となっている。
聞いていて不愉快にならない。聞き取りやすい。ある程度は発生練習によって改善することはできるだろう。しかし、努力ではどうにもならないくらい、地声によるアドバンテージの差は大きい。

 

ここまで、生まれつきの能力で生じる適性の話を書いてきたが、何も世の中の物事は才能で決まるものばかりではない。
初めは下手くそで駄目に思えても、熱心に続けていればトップ層になれる可能性があるものだって少なくない。

私は様々なことが器用に達成できてしまうせいか、心から本気で取り組もうと思える物事に、なかなか出会えなかった。
中途半端に結果を出せてしまうから、やり甲斐を感じにくい。頑張った結果どうなるのか、ある程度は想像できてしまう。つまらない。退屈だ。そんなものに人生を費やそうとは思えない。
学生時代は、進路の選択に困った。やりたいことなんてない。なんでも、始めたらそれなりに通用するだろう。でも、それでは駄目なのだ。

今は、運良く見つけることができた。
軽い気持ちでやっていたら全然上手くいかないけれど、真剣に向き合ってみたら悪くない結果を残せそうな、絶妙なライン。適性云々というよりも、興味関心とモチベーションと時間のかけ方によって才能の差を覆しうるし、いくらでも可能性が広がりそうな世界だ。
まだまだ、私はスタート地点に立ったばかり。センスとか適性とかを気にせずにいられるのは新鮮で、けれど要求される能力は果てしない。今後の十年くらいで、私の人生がどう変わっていくのか。
先は途轍もなく長いけれど、楽しみで仕方ない。