K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

日本語素人

主にインターネット上で目にする日本語に関して、しばしば私は不満を覚えることがある。
Twitterや匿名掲示板などでは日常茶飯事である日本語の誤用に対して、いちいち指摘しようなどとは思わないけれど、いわゆる大手YouTuberだとかインフルエンサーだとかが大々的に公開しているコンテンツにおいて同様の誤謬が存在しているのを見つけてしまうと、つい文句を付けたくなるものだ。実際には、まぁやらないが。
彼らは別に日本語のプロではない。教養も人それぞれだ。しかし、個人的にはそれを許容することができないでいる。

 

なぜ日本語の正しさを追求するのかと問われれば、それは私の生い立ちに原因があると答えるだろう。
幼少期から家庭では言葉遣いや正しい表現について、たびたび指導されてきた。誤った言い回しをすると訂正され、本質的に正しいとされる言い方を身につける習慣があったのだ。よく本を読んでいたというのもあるが、親には感謝している。

もちろん言葉というのは時代の移り変わりに応じて変化するものだから、必ずしも正誤の判断が絶対的なものとなるわけではない。たとえ辞書に載っていない言葉であっても、ほとんどの人間が理解し活用できるのならば、それは間違いとは言いがたい。
ただ、言葉のアウトプットというのは、その人の常識や教養のレベルを非常にわかりやすく示唆する。読書が趣味の人。まったく活字を読まない人。使用語彙の範囲が異なるのは、火を見るより明らかだ。
上手く日本語が使えない日本人に向けて、わざわざコレが正しいとアドバイスしようとは思わないが、私のように少し普通よりも日本語に関心のある人間からすると、誤った表現の使用は確実に印象を損ねると言わざるを得ない。

 

インターネット上のコンテンツが発達する以前の時代において、日常的に目に入ってくる文章というのは、プロが書いたものが基本だった。校正を通過している、間違いの少ない日本語だ。
だから、たまに誤植はあるにせよ、多くの場合において私が読む文章は、確かに信用に足る存在だったのだ。内容は問わない。ただ、日本語の正しさという一点において、その表現を吸収し、真似をして、自らの糧にできる品質の高い教材だったと言っていい。
それが今や、地に堕ちている。出版社から出ている文章は変わらずレベルが保たれているとは思うけれど、大衆にとって頻繁に触れる機会のある文章は、そうではない。
SNSをはじめとする誰でも投稿できる媒体がメインであり、あるいはYouTubeなどの動画コンテンツが主体となっているだろう。
それを書いているのは、日本語のプロではないのだ。ただの一般人が書き起こした間違っているかもしれない日本語が、世の中には蔓延している。
そういう時代なのだと言われたら、それまでの話かもしれない。正しいかどうかなんて、興味があるのは一部の変態だけであって、伝わればなんでもいいというのが多くの人の意見なのかもしれない。実際、表現の形式を問わず内容が伝われば、言葉としての役割は完遂できているのだから。

一つだけ懸念点を挙げるとすれば、昔よりも誤用の再生産が容易に、そして急速に行われるようになったことだろう。
特に言語習得の要となる年齢層が積極的に楽しんでいるコンテンツは、まさに日本語素人の生産した文章で溢れ返っている。子供は素人が作っているなんて考えもしないから、目にした日本語が正しいものだと思い込み、自らも使うようになる。
私に言わせれば、現代のインターネットは右も左も、奇妙な違和感のある言葉だらけだ。いちいち気にしていたら発狂してしまうくらいには、壊れている。
かつては流行りの表現が定着して正式に辞書が取り入れる、なんていう流れがあったのかもしれないけれど、もはや間に合わない。正誤の定義を下す前に、次から次へと新しく変化した表現が生まれては拡散していき、何が正しいのか知らないまま当然のように使う人間が至るところにいるという、日本語の混沌化が起こっているのだ。

 

このブログも、言ってしまえば素人が書いているようなものだから、あまり偉そうな物言いばかりしていると、どこかから咎められる可能性はある。
そうならないように、普段から「正しさ」を意識しながら更新を続けていきたいと思うが、完全に思い違いや勘違いをして覚えていたというケースが言葉には珍しくない。
もし間違えてしまったのなら、それは新たな学びのチャンスとして捉えることにしたい。