K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

乱れた言葉遣いへの嘆き

やはり人間の最もわかりやすく教養が表れる部分は、文章なのではないかと思う。
SNSが発達して誰もが自らの意思をアウトプットできるようになった昨今、文字書きのプロではない素人の文章を目にする機会は非常に多いけれど、そのクオリティは千差万別だ。
そして断言できるのは、基本的に読んで感心するような文章に出会えることは極端に少なく、その大半はレベルの低い駄文だということだ。

 

もちろん私だって完璧ではないし、まだまだ学ばなければならないことは膨大にあるけれど、こうして文章生成を日課にしている以上は、普通の人間よりも日本語に対して特殊なこだわりを持っているという自覚がある。
記憶が正しければ以前にも似たようなことを軽く書いた覚えがあるけれど、私は幼少期から思春期に至るまで、ある意味で日本語の専門家たる母親から言葉遣いに関する高度な躾を受けて育てられた。
そのおかげで、言葉の誤用に対しては敏感にネガティブな反応を示し、意味が不明瞭な語彙については積極的に調べて習得するような習慣が、ごく自然と身についている。

そんな私が、ネット上に氾濫する乱れた言葉を目にすると、しばしば次のように思ってしまう。
ああ、この人は教養がないのだ。
おそらく、成人するまでに一定以上の読書経験があれば決して間違えないような誤用を、一切の疑いなく当然のように濫用する恥ずかしい人間が、世の中にはありふれている。
なんとも嘆かわしい。

たとえば、言葉は時代とともに変化するものだし、コミュニケーションにおいては伝われば問題ない、という考え方もあるだろう。
確かに、一理ないとは言いきれない。
しかしながら、これは個人的な考えではあるけれど、自然と口から出てくる言葉と人間性との間には、密接な繋がりが存在しているのではないかと思っている。言葉を正しく扱うことが、その人をより高貴たらしめるのではないかと。
使っている言葉の正確性に疑念を抱かず、ただの刹那的な道具として乱雑に扱うような人は、自らの発信が相手にどう思われるかという想像力に乏しいのではないだろうか。言葉に無頓着な対人アプローチは、巡り巡って、そのコミュニケーションを失敗に導きかねない。

言葉とは繊細なものだ。
人間として社会で生きるためには必須のツールであり、義務教育を受けていたら最低限の水準には到達する。いちいち細かく使い方を意識していたら、キリがないと思う人もいるだろう。
けれど、言葉は本当に些細な違いで大きな誤解を招くこともあるのだから、なるべく正しい表現を目指すことにはメリットしかない。
ちょっとだけでいい。ほんの少しだけ、自分の発する言葉に意識を向けてみるべきなのだ。
もしかしたら、とんでもない思い違いが見つかるかもしれない。長年の価値観がひっくり返るような、衝撃的な発見があるかもしれない。
そうやってから、過去の対人コミュニケーションを思い出してみると、きっと恥ずかしくなることだろう。自分はなんてバカだったのか、と。

 

さて、残念ながら、大人になってからそこまで柔軟になれる人間はなかなかに少ないだろうから、この問題は深刻を極める。
現代は娯楽の増加により、読書を趣味とする青少年は一昔前に比べて大きく減少しているだろうし、一方で頻繁に読むことになるであろうインターネット上に溢れる文章や言い回しは、上に書いたように低レベルなものがほとんどだ。
質の低い教科書で育つ子供が、優れた大人になれるはずもない。誤用を誤用と理解せず、当たり前の表現として吸収し、使っていくようになる。繰り返される誤用の再生産は、もう止まらない。

方言に近い表現であったり、口語的に崩した表現というのは、本質的には間違いとは言えないところがあって、それはコミュニケーションの場に合わせて使い分けられればいいと考える。
それこそ、伝われば問題ないパターンだ。

翻って、いくつかパッと思いついた例を挙げるが、「一応」を「いちよう」とか「〜づらい」を「〜ずらい」とか「〜という」を「〜とゆう」とか、まぁよく見る言葉の乱れではあるけれど、主観的な判断基準に照らし合わせるなら、この種の誤謬はなんとも許容しがたいところがある。
これらは言葉の本質に理解が及んでいないというか、一定レベルの教育を受けていたら、まず違和感を覚えるに違いない表現なのだが、言葉への関心の低い人間が多数派を占めているせいか、辟易するほど頻繁に見させられる羽目になっている。
会話で出てきたら、つまり音声におけるコミュニケーションにおいては大して認識されにくい僅かなズレであるため、特に問題にならないことが大半だろうけれど、口語と文章は別物なのだ。彼らはその違いを考慮せず、感覚的に覚えたまま文章でも使ってしまっているのだと推察する。
かわいそうに。これまでずっと、まともに学ぶ機会も得られず、指摘してくれる家族や友人に恵まれることもない人生を送ってきたのだろう。

私は間違った言葉を視界に入れるとストレスを感じてしまう困った体質なので、そういったネガティブな感情の捌け口として、意識的に彼らを哀れに思うことで溜飲を下げている。
仕方ない。普通の人なんて、そんなものなのだ。
私と同程度に、言葉に対して強いこだわりを持っている人なんて滅多にいない。そういうコミュニティに入れば話は変わるだろうが、普通に生きていて出会える範囲では、生涯を通じて片手で数えられるくらいの数にしかならない気がする。