K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

新年の挨拶

人によっては0時を過ぎた瞬間から、LINEやSNSの通知が鳴りやまないことだろう。私の場合は所属しているグループ2つにおいて軽くテンプレートのやり取りがあっただけで、私自身は一切の発信を行わなかった。既読を付けるのも面倒で、起床後に気が向いたら見る程度のスタンスなのだ。
本当に必要だろうか。新年の挨拶なんてものは。

 

中学生の頃までは真面目に準備していた、年賀状とかいう慣習のことを思い出す。
小学生の時分には互いの住所を知っているなんて珍しいことではなかったから、クラスメイトと年賀状を送り合うことが年中行事の一つだったと言っても過言ではないだろう。
ただ、ほとんど毎日のように会っている相手に特別なメッセージを添えるのは、意外に難しい。たいていは「今年もよろしく」と大差ない表現に留まり、半ば機械的な作業であったようにも思う。
日常的に会うチャンスの少ない相手に対しては、「また遊ぼうね」などの言葉を伝えていた記憶がある。会わない相手とわざわざ連絡を取り合って遊びの約束をするなんて、あまり現実的な話ではない。毎年、顔を合わせてすらいないのに昨年と同じような内容を書き記してポストに投函していたというのは、今から考えると少し恥ずかしい。

私立の中学に入り、小学校で仲の良かった連中とは離れ離れになった。年賀状を送ることもなくなり、数年後に引っ越したこともあって、もはや連絡先を知っている相手はいない。
中学では新たな人間関係が出来上がっていたが、徐々に年賀状という文化が若い世代において廃れつつあったので、多くの「友人」に向けて年初に手紙を届けようという流れには、なかなか至らなかった。
それから現在までで、年賀状を含む定期的な交流がある人間は一人しかいない。別に親友というほど親しくもなく、だらだらと関係が続いているだけで、いつ音沙汰なくなっても不思議ではない。コロナ禍ということもあるが、昨年なんて一度しか会わなかった。

 

さて、冒頭のテーマに戻るが、私は新年の挨拶というものに縁がない。
インターネット上で繋がりのある人間なんて片手で数えるほども存在しないから、誰かと言葉を交わすことすら叶わない。珍しくグループが動いていたのを視界に捉えたとしても、そこで発言するのは私の性格上、凄まじいエネルギーを消耗するため、たとえ年始であろうと既読無視をするに限る。全員が言葉を発するわけでもないし、何かしらの主張を行いたい人間だけで盛り上がっていればいいではないか。
あるいは、同じ空間にいる家族であればコミュニケーションのシーンには恵まれるけれど、年越しの瞬間だけ妙に畏まる必要性は感じないのだ。0時を境に、つい先刻と現在で何かが大きく変わったわけではない。そんなところにこだわりを抱くくらいなら、別の興味あるアレコレに力を注ぎたい。
もし挨拶が最適解となる機会があるとすれば、親の実家を訪ねた時くらいのものだろう。たまにしか会えない親族と言葉を交わす。
しかし、それだって正月に引きこもりを決めていれば、それ以降で面倒な挨拶が要求されることはない。それに……ほとんどの親戚は正月にしか会わないという驚愕の事実に気づくと、過去に交わした言葉の大半が「新年の挨拶」であることを知る。毎度毎度、同じやり取りしかしていないのだ。いったい、なんの意味があるのだろう。

もう一月一日も終わろうとしているが、今年は物心がついて初めて、まともに挨拶の発信というものを果たさなかった。
煩わしい人間関係にとらわれないのは、客観的に考えて寂しく悲しい人間であるという側面を無視することさえできるのであれば、大変に素晴らしいことだ。
いつしか、私は「何とも繋がらない自分」を受容してしまった。

 

どうでもいいことだが、このタイトルでこんな内容を投稿しているコミュニケーションに難ありの人間は、はてなブログに私くらいのものではないか。「挨拶」と書いておいて、挨拶することの否定なんて。
ちなみに「一年の計は元旦にあり」とは言うが、私は今日の振る舞いが今後一年間に影響するなど毫も思っていない。