K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

正月くらいは愚図に過ごす

Twitterを眺めていると、新年から外に出て活動的な人間が多いことに感心する。
人に会ったり、美味しいものを食べたり、一般的に是とされるような行動を自然に取れるタイプの人間が、きっと社会に適合しやすいのだろう。私とは対極の存在だ。
暖房の効いた室内で一日の半分を睡眠に費やす寝正月は、思い返すと過去数年における恒例であるように思うが、それにしても一向に活力が湧いてこない。

 

親が親の実家へ、つまり祖父母宅に訪ねていったけれど、私は留守番していた。
昔から祖父母の世話になることは少なかったので、会うことがあるとすれば正月か、夏休みくらいのものだった。それも高校か大学か、進学するにつれて頻度が低下していき、最近では年に一度どこかで会えるかどうかといったところ。しかも、これは東京在住の祖父母についての話であり、もう片方は地方だから平気で五年くらいは間隔が空いてしまうものだ。
引きこもっていないで、親についていけば会うことはできる。ただ、会ったところで大した意味を感じない。それでも正月の挨拶くらいは礼儀だろうと、人によっては思うかもしれない。昨日の日記に書いたように、私はそういう褒められた人格を持っていないから、この手の選択は当日の気分に委ねるしかないのだ。

軽く妄想をしてみる。もし、私が訪ねた場合にどうなっていたか。
きっと終始、困ったに違いない。学生の身分であれば、近況についての質問に対して適当に回答することはできるが、現在はそれが非常に難しいのだ。親にすら、日々の作業について具体的な説明ができないのだから。自身でさえ、次の一週間に何をするのか明確な想定ができていない。
こちらから場を保てるような話題の提供はできないし、端的に言えば話すことがなくて気まずいのだ。それなりに話せる相手のいない飲み会に近いものがある。集団の中で会話のパートナーに恵まれなかった時にこそ、最も孤独を感じるアレに似ている。
こんなことなら、来なければよかった。わざわざエネルギーを費やしてストレスを浴びにいくなんて、頭がおかしくなる。そうなるのは、目に見えていた。

数年も顔を出していなければ、向こうも大きな期待は抱かないものだろう。
たまには孫の顔を見たいという想いはあるかもしれないが、他にも孫はいるのだから、それで満足してもらいたいものだ。私にとっても、祖父母や他の親戚にとっても、互いの人生に占める割合は相対的に少ないのだから。
もっとも、自信満々に身分の説明をできる立場になれば、話が変わる可能性は十分に残っている。それが何年後になることか、まだ明確なビジョンは浮かばないけれど、身近であるわりに他人行儀を余儀なくされる空間に対して前向きになるためには、私が変化するしかない。今年は無理だったし、来年も難しいかもしれないが……数年後の目標に設定するのは悪くない気がしている。

 

人生の充実に向けて活動している人間の姿を見ていると、比較して私はいったい……と嫌な気分になりそうになる。
ただ、あまりに否定的なことを書いていたとしても、私は自己肯定感が極めて高い。まぁだからこそ、こんな生き方でも平気でいられるという見方はあるかもしれないが。

現状が退屈だとは思わないし、私は私で、私が……私だけが充実できる生き方の仕組みを模索しているのだ。どう思われようが、他の誰にも決して否定などさせない。
新年早々、悪くない報せもあった。俄に変化は生じないとは思うが、来月か再来月か、徐々に面白くなってくることを期待したい。