K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

一時帰省

もはや月一イベントのようになっている、わりと近場の実家への帰省。諸々の事情が重なって月末から月初になることが多いのだが、今回は少し遅めの上旬となった。
毎度のように思うのは、やはり慣れ親しんだ家は温かいということと、積極的に参加できる会話のある空間は脳に素敵な刺激を与えてくれるということ。
特に予定のない来月の頭にも、また帰ってこようかと思ってしまうくらいの気分にはなった。

 

昨日は夜に外食し、そのまま泊まるという形だった。前回から一か月ほどしか空いていないし、その間、私自身に大きな出来事が起こったというわけではないにもかかわらず、ひとたび話し始めたら話題に尽きないのは面白いところ。
世の中の情勢であったり、最近の各々の変化や関心のある出来事、印象的な経験などなど……いつの間にか、喋り慣れていない私の喉は限界が近づいて発声が苦しくなる。

生活リズムは基本的に狂っているから、帰省したからといって正しく夜に寝て、朝に起きられるわけではない。
比較的早めに布団に入ったけれど、いつもと同様に早朝まで就寝することはなく、そして目が覚めたのは昼食の合図に応じて正午を過ぎた頃だった。
一人きりの生活と違うのは、昼になると食事のために起こしてもらえる点だ。食事も勝手に用意される。
実家とはいえゲストという立場だから、形式的には変なことではないものの、逆に手伝ったほうがいいのではないかと思わないでもない。
しかし、親は自主的に家事を行うことにある程度の生き甲斐を覚えているところがあるから、雰囲気で決めるのならば手出し不要となってしまう。判断が難しい。

少しばかり、話すつもりのなかったことまで口にした。
近況については、余計な心配をさせまいと喋った部分はある。あまり進捗が出ていないので内容的に大したことはなかったけれど、それでも安心してくれてようで何よりだった。
一方で、人生に対する向き合い方、価値観、今後の選択と可能性……おそらく家を出る前には決して話題にしなかったようなトピックが、別れ際、最後の最後で会話の中心となった。
私は恋愛とは縁遠い。人付き合いも苦手だ。普通の親が子に期待するような一般的な人生を歩むための、環境や能力、求められる様々なものから極端に乖離している私の生き様は、親の目にどう映っているのだろうか。
叶う可能性の低い望みを、珍しく聞くことができた。私は、きっとそれに応えることはできない。
そこはかとない虚しさを胸中に抱えつつも、それぞれの人生なのだから自分の好きなように決めればいいという、本当に恵まれた言葉で話題は締められた。

どうなるのだろう。自分自身の人生という意味では、後悔することはないと思う。ただ、親の子という意味では、それなりに納得のいく将来を形作っていける自信がない。
これは生まれつきの性格が招いた事態だと考えている。過去のどの時点に戻ったとしても、根本的な解決は困難である気しかしない。

人生、何があるかわからない。たまに聞く、期待を喚起する言葉だ。もしかしたら、思いもよらない出来事が待ち受けているかもしれない。
可能性は否定しない。可能性はある。当然だ。
ただ、私の場合は本当に、いつ訪れるかもわからないミラクルに委ねるしか、「そういう」道は残っていないのではないかとも思うのだ。
自分だけの幸せを追求するのは、それほど困難なことではない。ただ、そこに他者の幸せを混ぜようとすると、途端に難易度が跳ね上がる。
やはり人生とは、究極に難儀な暇潰しだ。