K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

ストレス備忘録

自分の性質が部分的に尖りすぎていることに気づき、少し調べてみたのだが……もしかすると先天的に弱点を抱えて生まれてきたのかもしれない。
昔から事あるごとに不都合は感じてきたし、今になって認識するというのは変な話なのだが、ネット上で簡易に実施できる診断を試してみると、ほぼ高確率で問題のある人間に該当する。
もっとも、やろうと思えば普通の社会人として振る舞うことはできるから、軽度ではあるはずだ。あるいは、そうでないとすれば、基礎能力的な部分で弱点をカバーしてきたことになる。

 

人間なんて誰しも得手不得手があって、適材適所が重視される世の中だから、特定の性質を取り上げて是非を問う意味なんて、あまりないとは思う。
ただ、いわゆる一般的な領域において標準レベルとされる行動やコミュニケーションを試みるにあたって、明らかに致命的な欠陥が顕在化すると、生きるということに難しさを感じるものだ。
周りの人間を観察していて、これは比較的簡単にできそう、これは困難が伴いそう、といったように客観的な判断をすることはできるけれど、主体を自らに置き換えた時に可能かどうかはまた別の話となる。
「普通」の行動が自分には適性がない。そう感じることは、決して珍しいことではなかった。

ただ、義務教育課程から高校、大学、社会人という流れを生きていく中では、向いていないからやらない、やりたくない、なんていう甘えが許容される場面のほうが少ない。
その場に存在していて、それなりの役割を与えられたら、もう基本的に逃げ場なんてない。もちろん逃げてもいいのだけれど、どうにか試行錯誤やりくりするか、頭を下げて見逃してもらうほうが、きっと長い目で見ると賢明だろう。
過去に個人的な窮地に陥ったことが何度もあるけれど、持ち前の器用さと地頭によって上手く乗り越えてきた。他者や場の要請に対して、取り返しのつかないまま事態を終焉に導いたことは記憶にない。

その場にいて、直接的に作用できるのであればどうにでもなる。私と相手の関係性を俯瞰することが苦手ではないから、目の前に浮かんだ選択肢の優先度合いを適切に並べて実行していくことは、私に与えられた対人コミュニケーションにおける数少ない武器だった。
コミュニケーション能力に弱点を持ちながらも、最低限の働きはできる。だからこそ、ギリギリのところで足を踏み外さずに済んできた。

 

現在、私が直接的な関わりを持っている人間はほとんどいない。
日常に生じる問題の大半は自らの怠慢が招く生活習慣上の悩みでしかなく、気分と意識の改善によっていくらでも結果は変化する。
煩わしい人間関係から抜け出した現状において、とりわけ強く感じるストレス要因は外的存在の行動に限る。私だけの穏やかな空間を侵す脅威は、人混みに揉まれている時の圧力よりも相対的に大きい。

私はどうやら、極端なまでに、物音に敏感らしい。おそらく普通の感覚を持っていたら気にしないような些細な音に、強いストレスを覚える。
自らが発している音には一切の感情も湧かない。ただ、外部から入ってくるイレギュラーな音の響きには、苛立ちを感じずにはいられないのだ。
隣人の会話する声。移動する足音やドアの開閉音。やや配慮に欠ける乱暴な音には例外なくネガティブな反応を示してしまうし、こちらが作用できないという点が絶望感を増大させる。
静寂な深夜、壁を隔てて伝わってくる鼾に気づいた瞬間から私の睡眠は中断せざるを得ないし、早朝には隣人の目覚ましアラームで隣人よりも早く、意図せず覚醒してしまう。早く止めてほしいのに、なかなか鳴りやまない。iPhoneのアラームというのは、なぜあんなにも不愉快なのだろう。

このところ、以前よりも神経質さに磨きがかかったように感じる。自分でコントロールできないから困っているのだが、過去の私であれば適当に流せていたであろう僅かな物音にさえ、過剰なほど気分を害される。
人間との交流が限界まで減って、あらゆる外部から入ってくるものへの耐性が落ちているのかもしれない。無菌室に滞在しすぎて、外に出るとすぐに風邪を引いてしまうようなものだ。

今のところ取れる対策手段は、あまりない。
部屋の構造的に防音を目指すのは不可能に近く、耳栓をすれば一時的に凌げはするけれど、長く装着していると別の意味で神経に障る。あれも十分なストレス源になって、確実に熟睡を妨げてくる。
そして困ったことに、自宅である以上は逃げ場なんてない。すべては隣人という得体の知れないモンスターの気分次第だ。
最適解は、もっと快適な部屋に移る以外には存在しないだろう。当面の目標が、また一つ増えた。