K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

人嫌いになっていく

もともと、あまり他人と関わるのが好きではなかったし、用もなく積極的に自ら誰かに声をかけるような性格ではないから、人生において多少なりとも私と会話をしてきた人間というのは、ある意味で特別な存在だ。
大半はシチュエーションに促された事務的なコミュニケーションだったけれど、中には少ないながらも親しく共に時間を過ごせた相手もいたわけで、振り返ってみると、あの人たちはなかなかに物好きだったのではないかと思う。

 

そんな「友人」も、しかしながら所詮は同じコミュニティに属している間の場繋ぎでしかない。
たまたま、人生の選択の過程で道が交差して、たまたま気が合いそうだと感じたから仲良くしただけなのだ。
学校であれば卒業とともに、それ以外の場であればコミュニティを抜けるのと同時に、基本的には縁が途切れる。たとえ連絡先を交換していたとしても、日常的に会う理由がなくなった人間とその後も継続的にコンタクトを取り続けるだけの間柄を構築するのは、私を対象に相手目線で考えると、かなり難しかったのではないかと思う。
対人関係において、おそらく私は手応えに乏しく非常に掴みづらい人間であり、スムーズに親しみを抱きつつ気軽に接することのできる人間ではなかったのだ。

冒頭にも書いたように、かつての知人らとの縁を失いつつある状況においても、私は焦らず、何かを求めるということもなく、関係性の行く末を時間の経過に委ねていた。
理由は一つしかない。面倒だからだ。
他者と断続的に連絡し合うことは、私にとって日常の安寧を妨げる障害であることがほとんどだ。それが幸せという人も世の中には存在しているのだろうし、むしろ多数派かもしれないが……私はそういう風に考えることが、どうしてもできない。
これは生まれ育った過程で定着した、私という人間のアイデンティティと密接に関与する性質であるがゆえに、このままでは社会生活を円滑を進めるにはデメリットも多いと認識した上で、後天的に矯正することはまず不可能に近いと捉えている。
そんなわけで、今では私と関わろうとしてくる物好きは片手で数えるほどしかいなくなった。

日記には何度も書いてきていることだが、私は社会的動物としては致命的な窮地に立たされている。
こうして毎日、それなりに思考整理を行う日記を書き残していくことで、自らの内面との対話という体で思考力や語彙力の維持には努めているけれど、客観的な対人コミュニケーションは冗談抜きでゼロと言っていい。
過去一か月の会話はスーパーの店員との短いやり取りくらいのもので、過去半年、いや一年間で考えてみても、家族と店員を除けば皆無なのだ。
主観的には特に苦痛なんかないし、声を発しない生活に慣れすぎてしまって違和感もない。一般人に言わせれば、きっと異常そのものなのだろうが……よく人間は一人では生きていけないという話があるけれど、そうした常識の外側に来てしまったようだ。
もちろん、生きるための食料を確保したり、インフラを整えてくれたりする「他人」は絶対に不可欠だ。地球に私だけポツンと取り残されたら、せいぜい保存食の期限が切れるまでの数年しか、まともに生きていられないだろう。
ただ、そういう意味ではなく、個人の生活空間における他者の存在という意味において、私は何者をも必要としない。

 

最近、どうやら自分の内面に若干の変化があったように感じる。
もともと持っていた余計なコミュニケーションを避けようとする性質が、より一層、強度を増しているかのような……つまり、ますます他人との関わりに忌避感を抱くようになった感覚があるのだ。
私が一人で歩んでいくはずの人生に、不意に侵入してくる存在からは徹底的に距離を置かなければならない。無意識に、そんな厄介な生き方を目指している気がしている。
何が厄介かというと、やはり一人で生きているつもりでも、生活するための事務的な相互作用はどこかで発生してしまうものなので、以前は当たり前に実行できていた他愛ない会話さえ億劫になりかねないという問題を孕んでいるのだ。
そして、さらに言うと、近くにいる他者の存在そのものが大きなストレスになる。隣人というのが代表的だが、一般人からすれば本当に些細な物音にさえ、私は大きな苛立ちを覚えてしまうのだ。
あるいは外を歩いている時には、近くを通り過ぎる自動車や、すれ違う歩行者に対して、あるいはYouTubeで配信を見ていたら、チャット欄にコメントを入力する有象無象の視聴者に対して……よくよく考えてみたら取るに足らない出来事なのに、その瞬間に私が快適だと感じる方向性と少しでもズレていたら、途端に神経を逆撫でる害悪だと認定して、自分でも驚くほどに不満を膨らませることになる。
しかし、それを顕在化させて迷惑をかけようとは思わないから、鬱憤は溜め込む一方となり、私の心は濁っていくのだ。

他者の言動に対して、ここまで敏感にネガティブな感情を持つことは、以前には考えられなかったことだ。
一人で過ごす時間が増えすぎて、自分の時間を他の人間と共有するという本来なら当たり前の経験から随分と離れてしまい、感性の外側にある物事を上手く受け入れられなくなってしまったのではないたろうか。
今後も一人で生きていくのであれば、これ以上の悩みに肥大化するとは思えないけれど、もし……もし仮に、いつか外の世界と接点を持つかもしれないと想像することができるのであれば、せめて昔の水準程度までは「アレルギー」を抑える努力をすべきなのかもしれない。
万一、状況に強いられることがあれば、器用な私ならこなせるはずだ。けれど、今のところ状況が変わる気配がない。だからこそ、悩ましいのだ。