K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

不眠症と過眠症

病院で診断を受けたわけではないから、これは体感の話なのだが、私は特定の周期で眠れなくなったり眠りすぎたりするようになる。
前者の場合、夜にどれだけ眠くても熟睡できず、途中で何度か目覚めてしまう。あるいは、なかなか寝付くことができない。連続睡眠時間が少なく、また睡眠の質が低いのが特徴だ。
後者の場合、どれだけ身体が睡眠を欲しているのか恐ろしくなるくらいに、惰眠を貪る。ひとたび眠りに落ちれば、次に意識を取り戻すのは半日ほど後のことになる。

 

まったく睡眠に問題を抱えていない時期も、当然ある。
夜には普通に眠くなり、それなりにぐっすりと深夜を過ごして、朝になれば自然と覚醒する理想的な生活だ。
このところは縁がないような気がしているけれど、過ごしやすい気候であれば……たとえば春や秋においては、睡眠のリズムが整うことが多いように思う。

夏や冬といった、身体への負担が極端になる季節は、どうしても睡眠関連の悩みが生じやすい。
夏は暑さのせいか溶けるように眠り続けてしまうイメージがあるし、現在進行系の冬は些細なきっかけで眠りから現実へと引き戻されるため浅い睡眠が多発する。
どちらが良いという話ではなく、どちらも悪いに違いはないのだけれど、活動時間が減少するとはいえ睡眠欲が満たされる夏のほうが、まだマシなのではないかと思う。今の生活における一番の悩みは、あまりにも質の低い睡眠内容に苦しまなければならないところにある。

 

いくつかのパターンを書いていく。
まず、夜に眠くなる場合だが、布団に入る前は眠くて仕方ないというのに、横になると不思議なくらい頭が冴えてしまうのだ。その妙な交感神経優位の状態を乗り越えると無事に意識が閉ざされるわけだが、その眠りは決して深くない。
ちょっとした出来事で、私は瞬時に睡眠の心地好い世界から戻ってくることになる。たとえば早朝のバイクの音や、近くの通りを走る車の音。ひどい時には、夜中に隣人がトイレか何かに起きて歩く些細な足音や振動だけで起こされてしまうのだから、自分で書いていてあまりにも神経質すぎるのではいかと感じる。
隣人の部屋で鳴っているスマホのアラームによって、隣人よりも早く起きることなんて日常茶飯事だ。鳴ったら数秒以内に止めてほしいが、残念ながら何分も鳴り続けていることが珍しくないため、無神経な人間というのはストレスが少なくて幸せそうだ。
当然、中途半端な時間に起こされたら、まだ足りていないと身体が訴えてくるため、二度寝、三度寝と続いていくことになる。しかし結局、いずれの睡眠も深くまで潜ることができずに満たされないことがほとんどだ。

夜に眠くならない場合は、一般的な考え方をすれば最悪なのだが、私個人の睡眠の質という意味では、相対的に充実させられる可能性が高い。
どれだけ頑張っても眠くならないので、渋々ではあるが深夜帯には起きたまま過ごす。布団に向かうのは、たいてい早朝から昼にかけての時間帯だ。
理由はわからないのだが、夜中よりも周辺の環境音は圧倒的に増しているはずなのに、昼間に睡眠を取ろうとすると、あまり気にならない。実質的に徹夜明けという形になるせいか、規則的な睡眠習慣を刻もうとする場合よりも眠気という生理的な欲求に素直であるがゆえに、よりスムーズな入眠が実現するのかもしれない。
昼間に寝ると途中で起こされることは稀であり、思ったよりも早く目覚めてしまったとしても、今夜は早寝しようと前向きに捉えることができるから心理的にもプラスに働く。

仮に、眠るのが下手くそという問題点は人生をかけて付き合っていくしかない特性だと受け入れるのだとしたら、期待する睡眠が夜に取れないということへのストレスを、なるべく減らす努力をしたほうがいいのだろう。
環境的な問題と、体質的な問題がある。それらによって、私は一般人の標準とされる健康で健全な睡眠リズムを身につけることが困難だ。
そして外的制限による、日中活動時間の規定は特に存在しない……となれば、やはり時間なんてものは意識せず、限界まで眠くなったら横になり、身体が満たされて初めて起き上がるようにしたら、もう少し幸福度は上がるのではないだろうか。

以前にも似たようなことを書いた気がする。
それが私にとって、ある種の正しさであるのは、わかっているのだ。ただ、世界はどうしたって時間を基準に回っているし、こうなる前の生活においては馴染んでいたはずの規則正しさという価値観が、無謀な取り組みに待ったをかける。
なかなかどうして、自由になるのは難しい。