K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

友人の存在

家族以外との交流がなく孤独な生活を余儀なくされている私だが、友人が完全に皆無というわけではない。
まぁこういう書き方をすると、一人きりであることをネガティブに捉えているように見えるけれど、実際は特に不満を感じていない。ただ一人でいることが何よりも楽だから、人付き合いという面倒を生活から省いていった結果、気づいたら友人の数が少なくなっていただけなのだ。

 

昨年、いや一昨年だったか、例の感染症の世界的流行により人と人との交流機会が社会全体で減少せざるを得ない状況に陥ったのは。
私自身は、対人接触を避けて引きこもることに抵抗感はなく、それによって生じるストレスも一般的な人間より少ない自覚はあるが、それでも影響がなかったわけではない。
具体的に言うと、友人だと思っていた連中からの誘いが消滅した。
とりわけ仲が良かったというわけではなく、彼らにとって私は数多くいる遊べる知人の一人でしかなかったとは思うのだけれど、世間が他者と会う行動に難色を示すようになったところ、彼らは本当に大切な友人とのみ付き合うようになった。
人間関係において優先度の低い私は、積極的に日常の交流から除外されていったというわけだ。

そういうわけで、すっかりLINEの履歴は家族を除くと簡単に2020年以前まで遡れる状態になっているわけだが、このたび久しぶりに遊びの誘いを受けることとなった。
ちなみに、私は上に書いたように人付き合いに消極的なコミュニケーション忌避者なので、自ら他人を誘って楽しみを作り出す能力を持ち合わせていない。
誘われたら基本的に拒否することはないけれど、相手からアクションがなければ自然と時の流れに任せて縁が切れていくという、なんとも悲しき宿命を背負っている。
悲しい。そう、悲しいのだ。客観的に考えて、環境には恵まれていたはずなのに、このような境遇は悲しいと表現するしかない。
しかしながら人間の本質は、簡単には変わらない。自ら孤独を招いていることを頭では理解できていても、改善するために動くにはあまりにも一人に慣れすぎてしまった。

今週末の土曜日、いつ以来だか忘れてしまったレベルで最後に会ったのが記憶の彼方……そんな「友人」と再会する予定が入った。
楽しみかどうか、いまいち実感がない。どちらかと言うと、恐怖というか困惑というか、心の準備にエネルギーを注がなければならないタイプの奇妙な緊張感が上回っている。
実際には今から考えても仕方のないことであって、別に何か特別な備えをすることもなく当日を迎えるのだろう。
そもそも、心から好きとは言いがたい「他者と会う予定」であるから、負の感情をまったく抱くことなく前向きになるのは初めから無理な話ではある。
現在と比べて程度の差はあれど、普通に社会生活を送っていた数年前でさえ、誰かとの約束は事前段階では多かれ少なかれ心の負担になっていたのだから。

 

一応、まだキャンセルになる可能性は残っている。
私が嫌になって取り消すわけではなく、相手の都合で直前に都合が悪くなるかもしれないという、少し微妙な状況なのだ。
それならそれで、構わないと思ってしまっている。だって、やはり楽しさと同じくらい、後に残るのは絶大な疲労感なのだから。容易に想像できてしまう。

家族と、それからスーパーの店員など生活を送る上で生じる事務的なコミュニケーションを除き、誰かと会話をするのは本当に冗談ではなく、半年以上ぶりだ。
人間が幼少期から学校教育の課程を経て自然と身につけていく、会話をするための力というものは、すっかり衰えてしまっていることだろう。
話題の切り出し方や、あるいは相手から振られた話の流れに応じて適切な反応を示す方法など、世の中の一般人が当たり前のように実践していることが、できなくなっているかもしれない。
そもそも普段、一切の発声をしないから、すぐに喉が壊れてしまう可能性だってある。
喋り慣れていない、なんてものではない。ほとんど他人との話し方を覚えていないのだ。

もっとも、幸いなのは日課として文章を書き続けているおかげで、思考力や語彙力に関して不安はないという点だろう。
上手く思考を音声言語としてアウトプットできるか不明ではあるけれど、意思疎通に必要な言葉の海は脳の中に広がっている。
最初こそ口が回らないかもしれないが、しばらく会話を重ねていけば、次第に感覚を取り戻せるのではないかと……不安ばかり書いてきたものの、なんとなくポジティブにも考えられる側面はある。