K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

適正と適性

こんな記事をわざわざ書くことすら業腹というか不本意なのだが、どこかで鬱憤を吐き出さないとストレスが溜まっていく一方なので、仕方ない。
まぁ何が言いたいかというと……日本語に無頓着であったり、根本的に日本語力の低かったりするどうしようもない人間が、この世の中には多すぎるという嘆きなのだ。

 

最近は競馬の予想に時間を使うようになって、YouTubeTwitterなどから情報を得る機会が以前よりも増えてきた。
これは別に競馬関連のコンテンツに限る話ではないのだが、競馬においては距離への適性というものがキーポイントになることが多く、つまり「適性」という言葉が頻繁に使われがちなのだ。
だから余計に、目につく。

私が気にならない表現、要するに正しい表記を示すと、次のようになる。
「適正距離」と「距離適性」だ。
そもそも辞書的な言葉の意味として、前者は「正しいこと、合っていること」であり、文法的に普通は形容動詞として使われることが多い。
形容動詞というのは、もっと身近な言葉で例えるなら「静か」のように「〜な◯◯」「◯◯は〜だ」と前後の名詞を修飾する働きを持つ。
一方、後者の「適性」はそれ自体が名詞であって、意味は文字通りに「適した能力」ということになる。
意味さえ理解していれば、音が同じとはいえ文脈からどちらの「テキセイ」を用いるのが正しい日本語表現なのか自然に判断できるはずだし、それを可能にするのが義務教育というやつだと思っているのだが……どうにも、それではない人間が想像以上に多いらしい。

現代の文字表現は、紙に書く方法よりもPCやスマホに入力することが大半なので、入力した言葉を変換する作業が生じる。
ひらがなにせよ、カタカナにせよ、漢字にせよ、人間が行う作業なので入力ミスによって思わぬ形で表に出てしまうことはあるし、推敲の手間を省けば省くほど、その確率は上がる。
実際、私も毎日のように日記を書いているから、気づいていない変換ミスは細かく調べてみたら大量に見つかるはずだ。
出版物でも誤植が珍しくないように、これは人の手が介在している以上は、どうしても発生する誤謬なのだから、多少のミスは受け入れなければならないだろう。
特に「適正」と「適性」なんて、パッと見の印象も近いため、問題なく区別ができる人であっても急いでいたら変換ミスに気づかないまま、ということも普通に起こり得る。

しかし、あまりにも……そもそも意味の違いを認識できていない人のほうが多いのではないかとすら思ってしまうのだ。
というのも、ミスにしては多すぎる。どこもかしこも「適正」ばかり。適正に「適正」が使われているシーンは滅多に見ない。意味合いとしては「適性」なのに、かなりのケースで「適正」と表現されているものだから、明確に区別したい私としては、いちいち引っかかって気持ち悪いのだ。
いったい、どうなっているのだろう。一般人の標準的な日本語能力のレベルは、こんなにも低いのか。

意味が伝わればいい。相手が理解できるのであれば、なんでもいいではないか。
そういう価値観の人間がいることは、否定はしない。
厳密には誤っているのだとしても、多くの人間が同じように間違えているのであれば互いの認識に誤差は生じづらいだろうし、そもそも区別して使い分けるのは面倒だから、入力時の手間を省く意味でも統一してしまったほうが合理的だ。
……なんてことを考えている輩がどれだけいるのかは知らないけれど、概ね文章の本質的な正しさにこだわりを持っている人が少数派であることは、なんとなくわかる。
なんと、嘆かわしいことか。

 

そういえば、随分と前の話になるが、似たような日記を書いた覚えがある。
こんなことを普段から考えているほうが、普通ではないのかもしれない。普通は……そう、普通は「適正」か「適性」か、なんて大して気に留めないものだ。
確かに私は、普通とは言いがたい難儀な性格をしていて、人によっては魅力的に感じるかもしれないが、たいていの一般人には厄介な存在として受け止められることが多いのだと思う。
それを理解しているから、外では可能な限り目立たぬように、個性を相手に見せないように、冷然と振る舞うスタイルを基本にしている。
根っこの人柄を晒すのは、一定期間の交流を経て、相手が拒否反応を示さないであろうという十分な自信が持てた場合のみ……たいてい、そこまで距離が縮まることはないため、友人が極端に少ないのだけれど……ともかく、日本語の使い方についてリアルの関係で指摘することなんて、まず起こらない。

誤った言葉遣いにストレスを覚えるのは、最近の私が取り込む情報のほとんどが、インターネットを経由しているからに他ならない。
日本人の過半数は、実は日本語の素人なのだ。専門的に学習したわけではなく、生まれ育つ過程で、それぞれの経験に基づいて自然に習得していったものだから、特別に興味を抱いて正しい表現を調べ、身につけようとしない限りは、間違って覚えてしまうことのほうが多いくらいかもしれない。
誰しもが自由に発信できる世の中になった以上、誤りだらけの言葉が無限に流れてくる現象は、むしろ当然のことなのだ。
日本語の素人が発信した言葉を、さらに素人が受け取り、間違いはそのままに広がっていく。これはもう、正しさを認識できる一部の物好きだけが、一方的にストレスを押し付けられるという不運な構図でしかない。

もっと明瞭な誤りであれば、ああ教養に乏しい人間なのだと簡単に切り捨てることはできる。
ただ、意味に対する認識の話ではなく、変換ミスという仕方ない要素が絡んでくるからこと、客観的に判別することが困難なのだ。
そういう意味で、数多くある日本語の誤用問題において「適正」と「適性」の違いは、非常に厄介なテーマであるということが書きたかった。
願わくば全国民に、一つひとつの入力した文字の変換に細かく意識を割いてほしいところなのだけれど、赤の他人に私と同じ水準で物事を捉えろというのは、あまりにも現実離れしすぎている。
きっと間違いを発見しても、気にせずスルーできるようになることがベストなのだろう。まぁそれが難しいからこそ、ストレスの捌け口としてこんな日記を書いてしまうのだが。