K's Graffiti

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声質は才能

努力次第でなんとかなる……いわゆる技術というものは、学習によって精度や水準を向上させることができるけれど、一方で努力では埋まらない要素も世の中には存在する。
最近よく感じる生まれ持った才能の一つとして、「声」を取り上げたい。
声というのは、外見に次ぐ人間の印象に関与する重要なパーツであり、特に近年は配信などの声を主体とするコンテンツが栄えてきたこともあって、その重要性は一昔前よりも増しているものと思われる。

 

ふと、自分の声質について考えてみる。
はたして私の声は、一般的に聞きやすいものなのだろうか。マイクを通じて他者に届けた時に、どのような印象を与えるのだろうか。
別に、今からYouTuberを目指すという話ではないのだけれど、もし仮に配信や動画投稿によって活動していこうとなったら、声質は無視することのできない強みあるいや弱点となるに違いない。
しかし自らの声というのは、自身に聞こえているものと他者に聞こえているもので、微妙に性質が異なる。喋っている時に聞こえているのは、空気を介さず頭の中に響いている自分だけの声であり、録音してあらためて聞いてみると、自分の声ではないような気持ち悪さを感じるものだ。
つまり、自分では自身の声が良いのか悪いのか、正しく判断することができない。ひょっとしたら、良い声とされる人は客観的に自らの声を聞いてみたら、違和感を覚えつつも「良い声」だと思うのかもしれないが。

YouTubeで動画や配信を見ていて思うのは、たとえ内容に興味がなくとも、声が良いというだけで留まるには十分な理由になるということだ。
その逆もまた然りで、サムネに釣られて開いたのに声が合わないと一瞬でブラウザバックしがちなのだから、声というのは本当に重要なのだ。
この傾向については、YouTubeでなくとも、昔から感じていたことだった。学校の授業で、担当教員の声が好きなタイプだったら聞いているのが心地好かったし、生理的に受け付けにくい声で喋る教師の授業は苦痛そのものだった。
残酷な話だが、声の本質というのは変えることができない。声量や響かせ方、声の高低は訓練によって鍛えることができる。ただ、声が持つ根本的な芯の形、聞いている相手に与えることのできる印象というものは、ボイスチェンジャーなどを使って機械的に操作する以外では、遺伝子によって形作られた声帯の個性に委ねるしかない。

 

声質にも、おそらく身体と同様に柔軟性というものがある。
発声の仕方によっては、大きく聞こえ方を変化させられるのだ。声の本質は変わっていないのだけれど、響かせ方によって耳に届く形を変えることができる。
プロの声優なんかは、この手の技術を磨いているから様々なキャラクターを違和感なく演じ分けることができるのだと思う。
あるいは、コールセンターに勤めている人間も声色を変える術を持っていることが多い。相手を不快にさせない声の作り方は、後天的に学ぶことができるのだろう。
しかしながら、それらもベースの声があってこそなのだ。幅広く変化させやすい声質というのはある。声質が悪い人間は、スタート地点から発声に関する大きなハンデを負っていると言っていい。いくら滑舌を鍛えたとしても、声に柔軟性がなければそれを仕事にすることは困難だ。

感覚的な話なので上手く言語化することは難しいが、良い声なのか、そうでないのかは、他人のものであれば聞いたらすぐにわかる。
良い声は、不愉快にならない響きが常に伴っている。悪い声は、響くことなく潰れているような印象を受ける。
これは声のプロではなく、発声の素人、普通の人間でも大きく差が出るところだし、実際に幼い頃から現在までに出会った知人を比べてみても、それぞれ大きく性質が異なっているので、やはり生まれつきの要素が大部分を占めるのだと思う。

身も蓋もない話をすると、顔面や身長と同じように、与えられた身体で自分の人生を精一杯に生きるしかないので、他者と比べても仕方ないのだ。
自らの価値観で優劣を決めて、他者を羨ましく感じることは誰しもあるとは思うが、その一方で自分が特にコンプレックスを抱いていない無意識の領域では、気づかないうちに他者から羨望の視線を向けられている可能性だってある。
駄目なところは駄目だと諦めて、良いと思うところを磨き伸ばしていくほうが、精神にはずっと健全なのだろう。
まぁそうやって完全に割りきれるなら、そもそも苦労なんて滅多にしないだろうから、現実的には非常に複雑で対処が困難な悩みの一つになるわけだが。