K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

喉の耐久値

会話が皆無な生活を続けていると、当たり前だが声帯の筋肉が落ちて弱くなる。
年単位で無発声というわけではないため、声が出せなくなるということはないけれど、自然と声が出せる正常な状態からは少し外れたようなコンディションになるのだ。
たまに声を出す機会が訪れると、だから強烈な違和感に襲われる。上手く言葉を声にできない。思ったような音量が出ない。
それはいつしか、コミュニケーションを果たすための器官として機能しなくなるのではないかと感じるくらいに。

 

大事な大事な約束事だ。寝坊するわけにはいかない。
寝る時間も起きる時間も、食事の時間や回数すらランダムな生活をしているものだから、珍しく決まった時間に予定が入っていると数日前から合わせていく必要がある。
基本的には就寝と睡眠時間の調整になるが、二日もあれば余裕だ。しかし、今回は努力を怠ってしまったせいで、最適な調子で臨むことが不可能になった。
社会が動き出す時間に寝て、昼過ぎに起きる。身体は夕方までの睡眠を欲していたけれど、起きなければ貴重な約束を破ることになるから我慢するしかない。
必然的に、具合は不調に傾くこととなった。

多少の無理をしてでも、孤独な私にとって他者と会う時間は大切にしなければならないものだ。限られたコミュニケーションには全力を注がなければ、場が保たないだろう。
外に出るのも、相手に気を遣うのも、会話を進めるのも、もはや慣れとは真逆の行為に他ならない。翌日に大きな疲労が残るのは承知の上で、頑張らざるを得なかった。

こういう経験ができる人は世の中にあまりいないと思うのだが、まともに声を発するのが久々すぎて、自らの声に違和感を覚えた。
声質、トーン……こんなものだったか記憶にない。自分の意志で相手と話しているはずなのに、感覚的にはまるで他の人間が喋っているのを間近で聞いているかのような気持ち悪さがある。
録音した自分の声を聞く時に似ている「変な感じ」が、常に喉元で発生していると考えればいい。自分の声を忘れるなんて、そう簡単に想像できることではなかった。

何週間ぶりか、何か月ぶりか、口を開いて音の出る言葉を発することに懐かしさを覚えつつ、徐々に喋ることへのブランクを自覚し始める。
不思議と口は回る。日々、日記を書き続けている成果だろうか、思考回路は正常に働き、意思をアウトプットするためのプロセスは上手く流れていく。一度、話し始めると止まらない。自分でも予想していなかったくらいに、大した目的もないというのに、次々と話題を転換させながら話を繋げていく。
もはや会話ではなかった。キャッチボールというよりは、一方的な投げ込みに近い。相互のコミュニケーションをする気なんて、ほとんどなかったのだろう。
いつしか、喉の耐久値は限界まで削れていた。

 

喉が潰れた時に特有のイガイガが、ずっと喉から離れない。先ほどとは性質の異なる、上手く声が出せない具合の悪さを感じる。
声優や、あるいは教師などの声を出す仕事をしている人はトレーニングや慣れ、正しいメンテナンスによって喉の強度を維持しているのだろうけれど、喋るということを日常の営みから外してしまっている私にとっては、ちょっとした会話をするだけで大きなダメージが生じるらしい。
もともと、少しカラオケで歌っただけで声の質が変わってしまうくらい喉が弱かったのだけれど、ここ数年の引きこもりが弱体化に拍車をかけているようだ。

本来の私の声がどんなものだったのか、もはや不明と言ってもいい。
いざ話し始めれば違和感を覚え、喋りに適応してきたと思えば間もなく正常な発声が困難になり、か弱い声帯が回復するまでには時間を要する。
少し……ほんの少しだけだが、声の持続力がある人間が羨ましくなった。