K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

生存記録(20240420)

連絡を受けて、病院まで足を運んだ。結局のところ、私にはいわゆる「人の心」というやつがないのかもしれないが、状況を知らせるメッセージからは明らかに私の来訪を望んでいるニュアンスを受け取ることができた。考えるよりも前に、おそらく行くべきなのだ。行かなければならない。つまり、私の意思などに関係なく、その場に赴くという事実にこそ価値がある。感情面において理解が及ばずとも、理性的に客観的に状況を判断するなら、即座に家を飛び出すのが正解であることは火を見るよりも明らかだった。
絶対に在宅でなければならない事情はないから、行くこと自体には問題がない。しかしながら事は急を要するため、のんびりしているわけにもいかない。ここ最近、朝に寝たり昼に寝たりと生活リズムが不安定なところがあったけれど、今日に関して言えば昼頃に就寝して夕方手前に起床、そのまま某ゲームの生放送を視聴する予定だった。もちろん、物事には優先順位がある。私の個人的な予定なんて、いくらでも後回しにしていい。ただ、ほとんど眠らずのコンディションで外出するのは体力的に厳しいものがあった。
人は生まれて死ぬだけの存在だ。他人にせよ自分にせよ、いつ死んだっておかしくない。ある意味で達観しているというか、わりと身近なはずな存在の死に近づく様を目の当たりにして、とりわけ感情が動かされることはなかった。ほとんど予想していた通りの姿を見ることになった、と言っても過言ではないかもしれない。ああ、やはりこれが死ぬということなのだ。別に大したことではない。誰しもが経験することになる、人生における当たり前のイベントだ。その具体的な形は人それぞれだろうけれど、年老いるまで生きて、親族に見守られる中で生涯を終えられるのだとしたら、それは一つの理想形なのではないだろうか。
長居しても仕方ないから、1時間足らずでその場を後にした。もう本人は意識を失っていたから、声をかけたところで私を認識しているとは思えないが……もう数時間のうちには亡くなるかもしれないわけで、これから先に生きた状態で対面することはない。あらためて永遠の別れだと思うと、今さらながら不思議な感じはした。顔を合わせた親戚の中には、直視することもままならずメンタルに傷を負っていそうな者もいたけれど、私は至って平静を保ったまま帰途につく。
帰宅した頃には生放送も半ばに差し掛かったところで、一番の見所は過ぎてしまっていた。何より、眠気が凄まじい。半分、目を瞑ったような状態で後半を適当に視聴したが、放送終了後まもなく気絶するようにベッドに伏せることになる。今は心よりも肉体への負担が大きい。ある程度、体力が回復して余裕が生まれたら、あらためて喪失感のようなものと向き合うことになるのだろうか。