K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

あれから一年

ニュースを見たとき、なんの冗談だろうと思った。そんな、まさか。
仕事中だったから見たのは映像ではなくて、たった数行の速報だ。まるで意味がわからない。すぐには理解できなかった。
頭の中が真っ白になったかのように、思考がまとまらない。ぼうっと、ただ情報が更新されるのを待つだけの時間だった。

 
毎日、昼食を済ませてから恒例にしている読書は、その日は内容がまったく頭に入ってこなかった。私の脳は、事件のことしか考えていない。
午後の時間は、ほとんどTwitterとニュースサイトを行ったり来たりするだけで過ぎていった。ネガティブな情報しか目に入ってこない状況が永遠に続くような気がして、精神は徐々に耗弱していった。
時間の経過とともに増加する犠牲者の数に、打ちのめされていく。何かできることはないかと、漠然とした不安と焦りが身体中をぐるぐると巡って、そして何もできない、祈ることしかできないんだと落胆する。ひたすらに、その繰り返しだった。

それまでの私の人生において、親しい身近な人間を失った経験はなかった。他には、たとえば芸能人が亡くなるニュースは定期的に流れてくるけれど、一方的に知っているというだけで、結局のところ私と関わりのない他人なのだ。残念に思うことはあっても、それ以上に強く心が動くことはなかった。
だからだろうか。突然、胸にぽっかりと穴を空けられたような感覚は得体が知れなくて、とてもじゃないけれど、制御なんてできなかった。狼狽するというのは、こういうことなのか。
我慢できなくなって、トイレにかけ込む。自分でも驚くほど涙が溢れてきた。


人生において、私の基本的な考え方や価値観、生き方……そういう人間性を形作るものの一部に、アニメの世界に触れることで得たものがある。
最初のきっかけが、京都アニメーションだった。

京アニ作品には、人を変える力がある。*1いつだって、私の心を揺り動かしてくるものを見せてくれる。つらいときに、アニメに救われた。毎日、毎週を生きる糧を与えてくれた。
私が当たり前のように生きている、この日々の根底の部分には、京アニの存在があった。
私は、自らの存在理由を否定されたような錯覚に陥ってしまったのかもしれない。自分の中で、何かが壊れていく。ニュースを見る度に、どうしようもなく胸が苦しくなる。
考えないようにするなんて無理だった。私の、アイデンティティの問題でもある。確かに遠くで起こった事件で、当事者ではないし、直接の知り合いでもない。それでも、他人事として受け流すことは到底不可能だった。関係はないかもしれないけれど、私の心は無関係じゃないと叫んでいる。想像したこともないくらい、私はズタズタに引き裂かれた思いだった。
現実逃避なんてできない。でも受け入れたくない。そのジレンマは耐えがたいものだったけれど、起こった出来事を現実としてしっかり捉えられるようになるまで、ひたすら耐える以外に日常を取り戻す方法はなかった。

アニメの制作会社はたくさんある。でも、その名前が一種のブランド化している会社を、その名前だけで無数に注目が集まり多大な期待が寄せられる会社を、私は他に知らない。
他の多くのアニメファンにとっても、大きな存在だったはずだ。その分だけ、事件の衝撃は凄まじいものだったと思う。しばらくの間、関連ワードで検索すると、悲哀に暮れる嘆きしか視界に入ってこなかった。
みんな苦しんでいた。どこに向けたらいいのだろう。どうやって吐き出したらいいのだろう。世界中の、負の感情の総量が、かつてないほどに膨れ上がっていた。


時間の経過というのは残酷だけれど偉大なもので、人間は長い時間をかけて少しずつ傷ついた心を癒していくことができる。
何かが変わったという明確な出来事があったわけではない。いつの間にか、と言ったほうが正確かもしれない。立ち直ったと自信を持って言えるかはわからないし、心の空洞は決して埋めることはできない。ただ、最近ようやく未来に意識を向けられるようになってきた。
私は、あるいは私たちは、前を向いて歩きだすのだ。生きていかなければならない。

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の公開を、とても楽しみにしている。
新作が出る。それに対して喜び、期待する。そんな、かつて当たり前だと思っていた日々に再び出会えるようになったことは、とても幸せなことだ。

*1:もちろん、制作会社に関係なくアニメーションには誰かの人生を変える魅力がたくさん詰まっている。ここでは個人的に、京アニの存在感が大きかったという話をしたい。