K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

使い分けの判断力こそ磨きたい

手続きのためにいくつか書類を持っていかなければならないのだが、やることと言えば事前に渡された書類に押印することが大半だ。あとは署名くらいのもので、自分で一から作るわけではないから簡単と言えば簡単ではある。
ただ、その程度のことなら別にPDFなどの電子媒体でもいいような気がするのだけれど、いまだに「正式」は紙にハンコなので、困ったものだなぁと思う。ちょうど印鑑からの脱却が話題になっているし、この国はあと何年くらいで変わることができるだろうか。

 

先日の賃貸契約においても同様の慣習があって、無駄に多くの署名と押印の作業を強いられることとなったのは記憶に新しい。ついでに住所も必要だったから、本当に面倒以外の何物でもなかった。
内容は一緒なのだし、せめて一か所に書けば全部OKという風にならないものかと思うが、まぁ事情があるから今のスタイルで定着しているし、なかなか気軽に変えるわけにもいかないのだろうな、とも思う。そんな事情は一般人から見えるところにはないので、不満ばかりが募るわけで、世の中うまい方法なんてないのだろう。だから、上から少しずつ変えようとする流れが生まれたことは、わりと最短の道である可能性が高いのではないか。

そういえば、文字を書くことなんて学生や教師でなければ、もはやそういう機会しかないことに気づく。急に求められると漢字を忘れていたりきれいに書けなかったりして、少し恥ずかしい思いをする。
この先、手書き文化がどんどん廃れていくとすると、文字を覚えるということ自体に力が入れられなくなって、次第に国語力の低下を引き起こすのではないかと思わないでもないが、流石に飛躍しすぎだろうか。
学問の場でデジタル化が進み、創作の場でデジタル化が進み、紙媒体そのものが下火になり、やがて……資源の節約とか効率化とか、メリットばかりが取り上げられがちだけれど、完全に切り替わってしまった時に何が起こるのか、想像できる人はどれくらいいるだろう。
個人的には、どちらが完全に上回っているなんてことはないと思うし、場面に応じて何が相応しいかという判断には、かなり長い時間をかけてもいいと思っている。無駄と言って省くよりは、両方に触れることができるほうが知識や経験が増えて好ましい。

 

アナログにはアナログの味がある、なんていう抽象的な印象を私は持っている。それは換言するなら、物質に対する心とか魂みたいなものだと考えたい。
なんだか唐突に突飛な話になってしまったが、要は感覚的な問題だ。私と対象物との間に生まれる、特別な光。画面を見るだけでは、決して見えないもの。実際に紙を見て、紙に触れることで生じる発想だってあるはずだし、紙を通じて交わされる感情の温かさみたいなものがあって、私は今後もそれを期待したっていいと思っている。完全になくなってしまうのは、だから寂しい気がするのだ。
もちろんデジタルでしか見えないものもあるし、技術的な観点で言えば、正直デジタル一択だという感触もある。アナログにこだわるあまりデジタルの普及を阻害している側面もあるかもしれないし、時代の流れに従って徐々に両者の領域を逆転させていくことは、ある種の宿命でもあるかもしれない。ただ、手段としてのアナログを完全に喪失してしまった先にあるものは、必ずしも発展ばかりではないのではないか。引き出しが乏しくなって、逆に創造性や想像力が欠如したり、あるいは脳死状態のように陥って人間としては生産性が低下するかもしれない。極端だけれども。

両方を行ったり来たりして、互いに邪魔し合わないように、むしろ相互作用でどちらも伸ばしていけるのが理想的ではないかと思う。どちらにも、できることとできないことがあるのだから。
そんな単純な話ではない? そうかもしれない。だから今は、時代の変わり目として、ひたすら観察に徹するのがいいのではないかと思うのだ。観察は、時機が訪れるまで待つということでもある。待ちすぎて初動には遅れるかもしれないが、長期的に考えれば、きっと無駄になることはないと信じている。

最後まで抽象的な内容になってしまって、たとえば一年くらい経ってから読み返してみて、何を言いたかったのか自分で理解できるのか怪しいところだけれど、たまには書きたかったことを勢いで書くのも悪くない。
ちなみにこれは制度面の話ではなくて、個人的なレベルにおける技術や表現手段への接し方の話であるから、やっぱり印鑑は要らないと思う。