K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

運が悪いからこそ

まるで口癖のように「運が悪い」と嘆く習慣に、いい加減に嫌気が差してきたところなので、少し考え方を変えることにした。
どれだけあがいても、タイミングを見計らっても、すべては裏目に出る。私はそういう星のもとに生まれたのだという現実を、ならばいっそのこと諦めて受け入れてしまおうと。

 

昔から、運のいいやつはいた。それは単なる確率の話で、私にだって可能性はあったかもしれないけれど、確率が収束するまで試す機会なんてない。私は「特別」に当たったことなんて、きっとなかったのだろう。
幼い頃の記憶なんて曖昧だし、宝くじみたいにわかりやすいものでなければ何が当たりかなんて人それぞれで、だから正直なところ一切の運に恵まれていなかったとは思わない。けれど、恵まれていないと思った回数は明らかにそれよりも多い。同じ度合いであれば、不幸は幸福に勝る。厄介な感覚器官を持ったものだ。人間とは、なんて難儀な生き物なのだろう。

運が悪いとは思いつつも、致命的な不運には巻き込まれないくらいの運はあるらしい。何しろ、運が悪ければ生後間もなく亡くなる可能性だってあるのだから。交通事故や、ちょっとした不注意により生命の危機に瀕する怪我に遭うことだって、別に珍しい話ではない。
まぁ要するに、不運を嘆く大半はそういう特殊なケースとはかけ離れた、卑近な日常に対して浮かび上がるネガティブな感情の発露に過ぎないわけだ。私に限った話ではなく、「運が悪い」なんて発言の多くは、他人が聞けば取るに足らないものに過ぎない。

しかし、私が生きながら現実問題として向き合っているのは、他人から見れば大したことのない、私の日常なのだ。日々の選択から導き出される出来事にランダム性が生じることは少なからずあるし、結果に対して精神状態やその日の行動が大きく左右されるということもある。
日常レベルにおける運は、それ自体によって人生が大きく変わるということはないかもしれないけれど、積み重なれば話が変わってくるかもしれない。長い目で見るとしたら、決して無視するわけにはいかないものだと私は考えている。

さて、それでは日常における運の悪さをどう捉えればよいかということになるが、ちょっとおかしな話になる。だから真剣には書けないが、なんとなく思っていることを記したい。
これは、宇宙の法則とか、そのように人智を超えた領域において規定されているものなのではないかと思う。運命とか、そういう目に見えない類のものを本気で信じているということではないのだけれど、個人のなんとなくの行動から生み出される一連の流れと結果の傾向が、概ね世界によって定められている。わかりにくく換言するなら、「そういうもの」がある。
運のいい人とそうでない人では、思考回路や行動パターンが異なる。性格や、欲の形、他人への自らの見せ方、などなど。断言はできないし法則と言えるほど大層なものではないかもしれないが、結果的に正しい道を引くための大まかな傾向があるのではないかと思っている。
そしておそらく、その傾向は生まれ育つ過程でじっくりと育まれてきたものだから簡単には真似できないし、やめることもできない。星のもとに生まれるとは、こういうことなのではないか。

そんなわけで、どうやら私は世界との相性が悪いらしいから、いくら頑張ってみたところで結果が伴わないことが多いわけだ。偶然にもタイミングが悪い。検討を重ねて慎重に臨めば、想定外のアクシデントに見舞われて計画が破綻する。自分は悪くないのに、失敗した他の誰かの被害を自分だけが被る。
挙げていくとキリがないし、こういうことは長い人生で考えれば普通に巡ってくる災難なのだろう。一つひとつを取り上げたら至って自然な現象で、「ツイてない」で済む話だ。けれど、あまりにも多い……気がする。お馴染みの集団の中において、なぜかいつも私だけ、あんな目に、こんな目に、遭う。
非常に主観的ではあるけれど、逆に客観的に判断できる基準があるなら教えてほしい。

 

解決策は簡単な話だった。抗うことを諦めてしまえば、気が楽になる。私は運がないから、ということを前提にして考える。常に心のどこかで、きっと不運にも駄目になるかもしれない、などと考えておけば、いざとなった時に慌てることもないし、対処法を用意しておくことだって可能だ。
後ろ向きすぎるかもしれないけれど、皮肉なことに、自分の運に期待するよりも逆手に取ってしまったほうが期待値が高いということに気づいてしまった。
運が悪い。だからこそ、きっとこうなるに違いない。そのための準備をしておけば、致命的な事態は避けられる。もしくは、滅多にないだろうけれど予想外の方向に事が進めば、すなわち運に恵まれたということになる。それならそれで、天の気まぐれを享受するだけだ。

隙がない。最強になった。