K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

配信者

すっかりオタク界隈では中心のコンテンツとなったVTuberだけれど、私はいまだに彼女らの配信を直接見ようという気にならない。
まったく無関心というわけではないが、触れる機会があるとすればせいぜいニコ動のランキング上位にある数秒から数分の切り抜きくらいのもので、最も面白いと思われる部分をつまみ食いしている程度にとどまる。
配信という枠に限って言えば、私はVが流行る前から、とある配信者を見ていた。

 

万一、検索に引っかかってしまうのもなんだか嫌なので、名前は伏せるけれど、私が見ていたのは日本においてかなりポピュラーな配信者だ。次々とVが台頭してきている過去二年ほどの間に、その人はVに負けない勢いでフォロワーを伸ばしている。
理由はわからないが、きっと配信者として天性の才を持っているのだろう。ただゲームをしているだけで、喋っているだけで、面白いのだ。それを知っているから、見ているから、私は新しくVに割く時間を確保しようとは思わなかった。

私がその配信を初めて見たのは、PUBGをプレイしている時だった。
2017年の春、当時のPUBGの話題性と言えば圧倒的なもので、私が欲に負けて買うまでそれほど時間はかからなかった。しかし、一度やったことがある人ならわかるだろうが、あの手のゲームは慣れるまで操作が難しい。しばらくの間、思い通りに動けないままなんとか逃げつつも隙を見て戦うという陰キャプレイを余儀なくされていた。周りも初心者ばかりだったからだろうか、二回ほどドン勝が取れたけれど、瞬発力とエイム力が求められるゲームをそのまま続けていくのは厳しく思えて、徐々にプレイ時間は減少していった。

上手い人の配信を見ればコツを掴めるのではないか。そう考えて適当に配信画面を開いて眺めるようになったのだけれど、残念ながらリリース直後のゲームでは、参考になるものは少なかった。
しかしある時、目を疑った。いつものように配信プラットフォームを開くと、これまで見ていた人たちと比べて視聴者の数が二桁も違う配信者がいた。なんだ、この人は……そんなにすごいのか?
疑問に対する答えはすぐに出てくる。
私自身や、他の有象無象の配信者とはまったく異なる立ち回り。毎試合、激しい戦いが繰り広げられる場所に降り立ち、類まれなセンスでキルを積み重ねていく。魅せるプレイとは、こういうことを言うのだろうと思った。加えて、話が面白い。普通に考えたら大したことのない、というより果てしなくくだらないことを言っているのだけれど、聞いているとなぜか楽しくなる。自分でプレイするよりも、配信を見ていたほうがずっと有意義な時間を過ごせるのではないか。
いつしか私はPUBGで遊ばなくなっていた。

それから約三年にわたって、私はその配信を見続けてきた。一年ほど経つと遊ぶゲームはPUBGから変わって、様々なジャンルを開拓していくようになる。いつだって面白いものを見せてくれた。見たら絶対に楽しいし、暇潰しになる。暇でない場合にも時間を奪われる。
特に配信界隈に詳しいわけではないから、他にも面白い配信者というのはたくさんいるだろうし、一人にこだわり続ける理由もないわけだけれど、間違いなく私にとってはとっておきのコンテンツだったのだ。今さら他の配信の沼にハマるのには、相当な勇気が必要だ。

 

残念ながらここ最近の動向については、あまり追えていない。
というのも、私自身の生活環境の変化や向き合わなければならない課題の存在感が大きすぎて、時間ばかりでなく視覚と聴覚を丸々捧げなければならない「配信を見る」という趣味に浸る余裕がなくなってしまったのだ。
それでは、楽しみにしていたコンテンツを長期的に放置すると、何が起こるか。それはきっと、興味を失う、というのが最も近い答えになるかもしれない。だって、あれだけ気になっていた配信なのに、今ではまるで見る気力が湧いてこないのだから。

大切な何かを失ったような、あるいは浮いた時間で新しい扉を開く契機を得たと見るか、今はまだ判断がつかない。
ただ、依然として自分の中の配信者の第一位にあの人がいるのは確かなことなので、もしVや他の配信を見始めるようなことがあるとすれば、あの配信も再び見ることになるのだろうと思う。

ちなみに、同じく視覚と聴覚を拘束される娯楽としてアニメやゲームが挙げられる。ただ、それらを制限してしまうと私の精神を支える材料が不足する懸念があるので、今のところは何かを変える予定はない。
それらと配信との決定的な違いが何かを説明するのは難しいけれど、いくつか浮かんだ考えとしては、全体的な拘束時間の長さとコンテンツの密度、そして私が能動的に操作可能かどうか、といったところだろう。

まぁどこまで行っても趣味は時間泥棒だから、楽しく、そして破綻させずに計画を進めるためには、なんでもかんでもというわけにはいかない。趣味の取捨選択こそが、人生における最も難しい分岐点の一つなのかもしれない。