K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

悲劇

私にとって、ただの知人なのか友人なのか、よくわからない関係の相手ではあるけれど、付き合いの長さで言えば十年以上になる人間がいる。学生時代のひと時を共に過ごして、卒業後は仲のよかった人間(これは友人と言っていいだろう)の交友関係に巻き込まれる形で、縁が途切れていない珍しい間柄。
個人的な想い入れのようなものは自覚できていないから、その人に何が起こったとしても、きっと私にとっては他人事という扱いになることだろう。私は、心の壁の内側と外側で極端に感性が異なるのだ。

 

外側にある関係性について、私は日常的なレベルで言えばほとんど意識することはない。わかりやすく言えば、相手に対して自発的に働きかけることが一切ない……とまではいかないかもしれないけれど、感情というリソースを向けるための優先度が、内側に属する人間に対してよりも明確に低い。
もっとぶっきらぼうな言い方をするなら、「どうだっていい」のだ。だって、今までも、そしておそらくこれからも、私の人生に大きく影響を及ぼすことはないのだから。

この認識について、日記を書いている現在においても致命的な誤謬があったとは思っていない。基本的な考え方としては、私の根本的な特性と概ね一致していると言っていい。
ただ……そう、時には例外があることも忘れてはならないのだ。たいていの物事には例外が起こりうる。私にとって今回の事件は、記憶の奥深くに眠っている悲しく苦しい出来事を呼び起こすのに十分な威力を含んでいた。
直接、相手に差し伸べる言葉が見つからない。だから私はこうやって、好きにできる空間で気ままに吐き出すことにする。

 

具体的に何があったかということについては、若干プライバシーに関わるというか、ここで書いてしまうと人間性にバグがあることを高らかに宣言しているのに等しいような気がするから、非常に抽象的な話になってしまうけれど、とにかく悲劇があったのだ。
私の知人であり、私の友人の友人であるその人は、以前から叶えたい願い事があった。けれど、複数の問題を抱えていたのだろう、道は険しくて、これまでにもたくさんの苦労を乗り越えてきたということが、詳しい事情を知らない私にも、なんとなく伝わってきていた。
今年の半ばが過ぎてから、ようやく念願が叶いそうだと、このまま順調にいけば素敵な結果が待っていると、そういう雰囲気を感じ取ることができた。あとは、何事もなく時が過ぎればいいのだろうと。
私は比較的無関心ながらも、聞いている限りでは大丈夫なのだろうと思っていた。LINEのグループにいる他のメンバーも、おそらくは同様だったに違いない。

先日、本人からグループ宛に、順調だったはずの一件が駄目になってしまったと、悲報が入った。不運の積み重ねによるもので、通常こんな目に遭うことはないのだと説明していた。それを文章にして他人に伝えることだって相当につらいはずで、もう既に多少は時間が経過しているから精神的に落ち着いてきているのかもしれないけれど、勝手に期待しつつも当事者ではない人間にとっては急転直下のとんでもない事態で、その報告に対しては現実感というものが希薄に思えてしまった。
そうなんだ、大変だったね。言ってやるのは簡単だけれど、そんな言葉ではどうしようない鬱屈とした塊がその人の心に取り憑いているように感じられて、私は反応できなかった。見ているだけ。「今はそっとしておいてやれ」なんて、使い古された台詞のような言葉が脳裏に巡る。
悲劇に見舞われた人間に向けて咄嗟に何かしらの声をかけるのは、互いの間で発生した不安を取り除く手段でもあり、半分は自己満足に近いと思っている。それでも、懸命に相手を慮って文章を綴ることのできる甲斐性は、私にとって眩しく映る。

最初から、特に気にかけていたわけではなく、ぼんやりと経過報告を受け止めていただけなのだ。だったら今回も、同じように機械的に事実を認識すればいいだけの話だった。
表向きには無反応だからこれまでと変わらないとはいえ、内心ではきっぱりと一貫した態度でいられないことが……ただただ勝手に煩悶している自分自身の姿が、相手に対する申し訳なさのような感情を引き起こす。

 

どちらかと言えば、私は目の前に突き付けられた情報よりも、過去に思考を遡らせていた。
随分と昔のことだ。十五年か、もっと前かもしれない。今回の件と似たような事件があった。
当時、私は精神的にまだ未熟で、世の中の理についてこれっぽっちも理解が及んでいなかったから(今も理解できているわけではないけれど)、よくわからないうちに事が過ぎ去っていったという印象が強かった。しかし今回と違う点があるとすれば、まったくの当事者ではないというわけではなかったことだった。人生における試練を受けたのが自分ではないというのは同じだけれど、とても他人事とは思えない状況にあった。
まるで神に見捨てられたかのような現実に直面して、悲嘆に染まったあの人の顔を見た瞬間に、事情を詳しく知らない私にも何が起こったのかわかるくらいだった。
こんなことがあるのだと……人生とは、ささやかな幸せのためにつらく苦しい過程を絶えず乗り越えなければならない難儀なものだと……思えば、あれが初めてその真理に触れた瞬間だったかもしれない。

その人は、それから時間の力を借りて心を癒し、再び動き出すための力を取り戻した。諦められないとチャレンジを続けて、どん底から数年後にようやく奇跡のような成功を掴み取ったのだ。
私は、それが自分のことのように嬉しかった。大して理解してもいない、本人からすれば蚊帳の外かもしれない私だったけれど、他人の幸せが自分にとって嬉しい、なんていう珍しい経験ができたのは、悲しみを乗り越える姿を間近で見ていたからだったと、今では思う。

今回の悲報に際して、私は精神的に寄り添う権利を放棄した。以前とは立場が違うし、温もりのこもった言葉を投げかける人は、幸いなことに私が神経を削らなくても他に複数存在している。だから、あとはもう、ひたすらに俯瞰に徹することだろう。
願わくば、かつて私が見守った逆転劇と同様に、再び幸福が訪れますように。