K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

労働の価値

先日も書いた、労働とは納得できるかどうかがすべて、という前提があるから……まぁ本人がそれでいいのなら何も言うことはないのだけれど、最近は働くことの意義について考えることが多くなったので、もう少し日記として残しておきたくなった。


低賃金とか貧困とか、国としては豊かだと言われつつも金に対する嘆きが多い日本に生まれ育って、一応は社会人としての経験も経た私としては、確かにこのまま生きていたら相当に能力があるか運に恵まれない限りは不満がなくなることはないだろう、などとぼんやりと思うことがある。
賃金に対する文句は以前に結構な長文で綴ったから、あらためてアウトプットすることはないけれど、単に金を得るという視点に立ってみれば、別に労働の対価として得られる賃金なんかにこだわる必要なんてないのではないかと、あまり自信はないものの最近はそのように思えてきた。

雇われの立場というのは、気力と体力に問題がなければ生活の安定が保証される。多くの一般人にとって安定の二文字は魅力的で、だから就職するというそもそもの選択肢に悩むことなんか、ほとんどないのかもしれない。
思い返してみれば、私は違った。初めから脳死の選択として会社員になることには強い疑いと違和感があったし、慣れてからも一向に納得できないままだった。
金を稼ぐために身を捧げるなんて、私の身体はそれほど世の中に都合よく出来ていない。極端な話、なるべく己を犠牲にすることなく収入を作り出すことができたら、どれだけ楽になるだろうかとずっと考えていた。でなければ、人間らしい生き方なんて望めないだろうと。

最近は企業の部品となること以外の生き方も、昔に比べて随分と明るく見えるようになってきた。まだ舗装はされていないけれど、慎重に足元に目を凝らせば、確かに歩ける道はある。
これまた極端な話かもしれないけれど、YouTuberとか、あるいはもっとクリエイティブな世界とか。成功する人間よりも失敗する人間のほうが圧倒的に多くて、それが無数の屍の上に輝いている舞台なのだとしても、現実的に道を選ぶことができる時代であることは間違いない。
まぁ近頃は競争相手が増えてきているので、今からではちょっと難しいかもしれない。けれど、まだ新分野の開拓余地は際限なく広がっているだろう。

あるいは、それなりに貯蓄があるのであれば、資産運用で生きていくことも不可能ではない。今年は三月に暴落があったけれど、その後に全力で投資していれば大きく利益を出すことができた年だった。
株にせよ仮想通貨にせよ基本的な流れは明らかに上なのだから、短期的な多少の含み損さえ気にしなければ、最終的に働くのと大して変わらない水準で生活費を稼ぐくらいのことは、比較的容易に達成できるイージー相場だったように思う。
クリック一つでこんなに簡単に稼げるというのに、それでは苦労して労働することの価値とは、いったいなんなのだろう。
私は途端にわからなくなってしまった。少し前までストレスと戦いながら耐えていた、心底くだらないと思いながら片付けていた作業の数々には、この先どんな意味があったと振り返ることができるだろう。ああ、くだらない。
こんな風に思うこと自体が、昔から連綿と続いて人間社会に深く根を張っている「常識」からすれば頭がおかしいという認定を受けそうなものだけれど、私から見える現実とはそういうものなのだから仕方ない。

わざわざ汗水を垂らして働いて、ようやく手に入れることができる賃金がある。好きなことをやっていて、やりがいや達成感、自己実現という結果のオマケとして収入が得られるという話であれば、それはある意味で理想的な生き方なので横から口を挟む余地はない。
しかし、そうでない場合。とりあえず生きていくための稼ぎが必要だというだけの理由で時間と身体を売るような行為を肉体が老いるまで続けていくのは、はたして幸せなのだろうか。
ちょっと頭を使って機転を利かせれば、他の可能性が目の前にはたくさん転がっているはずなのだ。組織に所属している安定感が、新しいことに身を投じるためのちょっとした勇気を抑圧しているのではないかと、思わずにはいられない。

働いて稼いだ金で食う飯は美味い、なんてことを言う人がいるかもしれないが、働かずとも飯は美味いし味なんて変わらないぞ、と浪漫のないことを頭に浮かべる。
まぁ食事は私にとって昔からご褒美ではなかったので、前提からして大衆の平均的な感覚とは異なる部分があるのかもしれないのだが。
結局のところ食事は食事だし、金は金だ。それらに対する感覚こそ状況や入手手段次第で相対的なものとなり得るけれど、それらの物質そのものが持っている情報は、よほどのことがない限り不変なのだ。客観的な価値は変わらない。
そして変わらないのであれば、それらを得るための過程は己の限りを尽くして理想を追求するのが好ましい。


ふと、たまに一方的に覗いている(監視しているとも言う)入社同期のTwitterアカウントを久しぶりに遡ってみた。研修から最初に配属された部署まで一緒で、最も気が合うやつだった。
なぜアカウントを知っているのかという話は置いておいて、もう長いこと会っていないし今後も会えるかわからないことを思うと、つい気になってしまうのだ。
ツイートを読んだ感じでは、最近は多忙を極めているらしく、休日出勤や深夜作業が増加しているとのことで、他人事のように大変だなぁと思ってしまう。まぁ実際、他人事ではあるのだけれど……わざわざ連絡を取ったり親身になって心配したりすることはない。ただ、そういう現実があって、おそらく他の分野・生き方に目を向ける余裕を奪われているだろう事実には憐れみを覚える。

頭の回転は悪いほうで、言っちゃ悪いが仕事は下手なやつだった。真面目で礼儀正しいし、何事にも真剣に取り組もうとする姿勢は社会人として参考にすべき部分だったので、その日々の頑張りには尊敬すらしていたけれど、あれはきっとワーカホリックに陥る才能の表れだったのではないかとも思う。
典型的な企業に搾取される側の人間に対して、私は何も言うことができなかった。何か助言をしたところで、意図が伝わるとも思えなかった。

そういう人は、社会に必要なのだろう。すべてが私のような社会不適合の怠け者では、おそらく世の中が崩壊してしまう。
彼らに負担を背負ってもらって、私はもっとのびのびと立ち回っていけたらいい。
まぁ「のびのび」と言いつつ、常に不安定な立場にいるわけだから気楽ではないのも事実だが。