K's Graffiti

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金銭感覚の歪み

幼い頃には100円だって大金だったという人は、決して少なくないだろう。小学校低学年の時分、学童にクラブに通っていた時代に、100円を握って駄菓子屋に行くという定期イベントがあったことを思い出す。
当時と比べたら最近は随分と物価が上がったように思うけれど、それはさておき、100円という少額でも複数の商品を選んで幸せを得ることはできていたのだ。

 

大人になる過程で誰もが知ることではあるが、現実的には普通の生活を送るだけでも100円の何百倍もの出費が要求される。社会を知るに連れて、自らの金銭感覚も社会に合った形で補正されていく。
その上で、収入や消費の習慣、自らが定める生活水準によって少しずつ、金銭感覚というものは人それぞれ固有の性質を帯びていくのではないかと私は考えている。

ここで一般論を語るつもりはないし、そもそも一般的な感覚とは距離を置く生き方を選んでいるせいで、私はおそらく同年代の人間と比較したら、かなり歪んだ金銭感覚を身につけてしまったような気がしている。
たとえば食費に関して言うと、基本的に私は最も節約しやすい余計なコストであるという認識であるため、常人では真似できないような水準で生活している。具体的には、月の食費が1万円前後という感じだ。
もはやコンビニで買い物をすることはなくなったし、外食なんてほとんど選択肢のうちに入らない。年に数回しかない他人との付き合い以外では、食べ物に金をかける意味を見出だせないのだ。
一食ワンコインですら高いと感じてしまうのだから、もう普通の社会生活を送ることは不可能なのではないかと思ってしまう。

一方で、東京に住んでいる限りは地方よりも圧倒的に高い家賃を許容しなければならない。
仮に同じような物件で家賃が半額で済む地域に引っ越せば、毎日のように外食をしても総出費額は現在と大きく変わらないという事実は認識しているものの、東京育ちの人間が地方に目を向ける難易度は非常に高い。
滅多に外出しない私でさえ、この生活環境を手放すことには強い抵抗感を覚えてしまうし、結局のところは自分の中で何が大事なのかという問題に過ぎないのかもしれない。
私は衣食住のうち、食を軽視して住を重視している。シンプルな話だ。
ちなみに、衣は見た目にこだわりがないため、軽視寄りだろうか。ファッションのことは、まるでわからない。

 

金銭感覚を社会の標準から外れた位置に持っていくと、人付き合いに支障が生じる可能性がある。
それは、私の場合はコスト削減方向だけれど、逆に浪費癖のある人間についても同様のことが言えるだろう。
どこに出かけるにしても、大人同士の付き合いならば公園で遊んだりベンチで語り合ったりするわけではないのだから、金を払って何かしらのサービスを受ける場所を利用することになるはずだ。その際に、気軽に選びがちな候補が各々の金銭感覚に依存して頭の中に浮かんでくることになる。
軽く昼食を摂ることになったとして、一日の交際費として数万円くらいなら痛くないという人なら、ランチに3,000円程度は平然と受け入れられるレベルなのだろう。しかしながら極限まで食費を削りたい私は、どれだけ高くても1,000円前後で済む店を積極的に選ぼうとしてしまう。
残念ながら互いの何気ない意思が上手く噛み合わず、せっかくの機会だというのに、不満を覚えながらその日を過ごす羽目になりかねないのだ。

また、私は物欲が少ないため、今すぐに必要という品を除きショッピングに向かうことがない。
なんとなく店に立ち入り、気になったから衝動買いなんてことは、まず発生しないのだから困ったものだ。いや、私は困らないのだけれど、世の中の人間は意外と金を使うことに躊躇がないらしく、なんとなく空気が読めていない感じになることが、どうにも私は気に入らない。
同行人が何かを買っているのを眺めて待つというシーンを、ほとんど毎回のように経験することになる。

出費を抑える方向に金銭感覚を歪めることのメリットは、進次郎構文になってしまうけれど、出費が抑えられるということに他ならない。
金はないと困るが、ある分には困らないのだから、本質的に必要のないコストは削り得というものだ。別に大金持ちを目指しているわけでも、そういう姿に憧れるわけでもない。ただ、私は自らを金遣いの荒い人間として定義したくないだけなのだろう。
こういう感覚を日頃から身体に馴染ませておくことで、いざという時にメンタルへのダメージを最小限にしつつ少額で生活することができるようになるはずだ。
デメリットは……現状では特に思いつかないけれど、何か大きな決断をする際に出費を控えすぎてしまうことで、得られるはずの何かを逸してしまう可能性がある、ということくらいだろうか。
そんな状況を想定するよりは、普段の生活のほうが重要だと思うのだが。

ギャンブルにハマって、後先を顧みず刹那のスリルのために大金を投じる病人が存在する。それはそれで楽しさはあるのだろうが、彼らの意識と私の考え方とが交わることはないだろう。
無意味な想定というか妄想だが、そういう連中が私にとっては標準レベルの節約を強いられた時に、はたしてどのような反応を示し、上手く対応できるのかどうかは、少しだけ興味がある。