K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

自分のことが大好きなので

たびたび書いてきたような、ちゃんと書くのは初めてのような、よく覚えていないけれど私は自分のことが大好きだ。
それはもう、何よりも、というくらいに。言い方を変えるならナルシストということになるかもしれないけれど、特にネガティブな意味合いはないので少し違うかもしれない。
個人的に、これは私の心にとって最大のプロテクトなのだと考えている。

 

Twitterで拡散されていたので一気に読んでしまった漫画がある。
鬱病に向き合い治していくという話で、かなり専門的な内容であるにもかかわらず非常にわかりやすいものだった。
自分の心を虐待する行為。その漫画では、鬱病がそう描かれていた。

幼少期に受けた愛情が足りないとか、意志に反する行動を無意識に自らに強いてきたとか、原因は無数に考えられるのだろうけれど、結局のところは自分という存在の根っ子を自覚できていなかったり無視したり、あるいは気づかぬうちに否定してしまったりして、「今」の自分を直視できないことが問題を生み出しているのだとか。
その漫画で描写されているかわいそうな境遇は、必ずしも私の経験と重なることばかりではなかったけれど、気持ちは理解できる気がした。
多かれ少なかれ、いつだって人は鬱に陥る可能性を秘めているのかもしれない。

私はとても愛されて育った。親からの愛情をこれでもかというほど注がれ、受け取り、その温もりはおそらく死ぬまで私の心の中に宿り続けるだろう。
そのせいか、私は自らを虐げない。もちろん、試したことが成功しなければ下手くそだなぁとは思うけれど、そういった感情はすぐに上手くなりたいという燃料に変換されるか、興味のないものとして即座に破棄される。いつまでも留まって毒のように心を蝕むということは、記憶の限りではほとんどなかったように思う。

実際にやれるかどうかは別として、私は常に私の成功を信じている。
たとえ初めてのことでも、普通の初心者並の結果は残せるだろうと思っているし、想定より苦戦してもそのうち慣れるだろうと考える。
焦る必要はないのだ。マイペースに進めればいい。そういう心の余裕を、私はいつしか手に入れることができるようになっていた。
昔から同世代の人間と比べて落ち着いていたし、思慮深い。自分の言うのもなんだが、周囲からそういう評価を受けている自覚があったのだ。
私にできないことなんてない。まぁできないことなんてたくさんあるわけだが、「私にはできない」なんていう逃げ文句を頭に浮かべたことは、一度もなかっただろうと思う。
試しにやって上手くいかなければ、それが本当に関心を持てる事柄かを考え、そうでなければ悩む必要はないし、やる気が出てくるならいよいよ真剣に取り組む。
時間と体力を使って集中モードに入ると、納得の行くまで没頭し続けるという性質があるからだろうか、私は全力で頑張ったのに駄目だったという記憶がまるでない。
やっぱり、やればできるじゃないか……! そう感じた出来事は数えきれないくらいにある。

ここまでは主観的な話で、現実的にはどう考えても挫折だったとか無謀な挑戦だったとか、そういう結果を迎えている経験だって数多く存在していることだろう。
ここで重要なのは、解釈だ。
自らが直面する様々な現象を、前向きに捉えるかそうでないか。
マイナスの印象を受けるエピソードは、次に成功した時の糧と考える。もし次に繋がらないのであれば、ただ縁がなかったのだと、むしろ他の分野で活躍するために機会を与えてくれたのだと思い直す。
全力でやりきったかどうかは結果論であって、過程に対する評価は現在進行形では難しい。もしかすると私は、常に私を大好きでいられるように、不断に考え方を変化させているのかもしれない。

私の生活は、常識とか世間みたいな視点を取り入れて見てしまうと圧倒的に否定的な意見しか出てこない可能性だってあるけれど、だからといって私が精神を病むわけではない。
私でなければとっくに鬱になっているに違いない……と考えることもまた自己肯定感に結びつくわけだけれど、ともかくこういうスタンスで生きている限り、私は鬱にならならないのではないかと思っている。
ひょっとしたら、既に手遅れでこの文章がただの妄想の可能性も否定はできないが、そもそも半年以上自己満足の日記を世界に垂れ流しているという時点で頭がおかしいというか、心の安定性が確保できているというか、そういう私にとってプラスになる証明が出来ている気がするのだ。

自分を好きなることは、とてもいい。