K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

自己対話はいいぞ

一人で生活していて、今どきの若者にもかかわらず友人とオンラインで通話したりゲームで遊んだりすることもない私の姿は、端的に言って孤独感に包まれていることだろう。しかし、まだ私は寂しいという感情を覚えていない。
もともと一人が好きというのもあるが、これほど他者と会話のない期間が続くというのはかつてなかったことなので、多少は心が動くかと思っていた。今のところは、けれど意外な結果となっている。


昔から私は心の中で考え事をするのが癖というか、言ってしまえば生き様みたいなものだったので、意図の読めない相手と相互に言葉を駆使して複雑な意思伝達をする必要がある「コミュニケーション」というやつに対しては、それほど好ましい想いを持っていなかった。
面倒くさいという以前に、窮屈なのだ。互いの関係性、バックグラウンド、文脈、顔色、機嫌……などなど、いろいろと考慮しなければならない諸要素のために純粋な思考が阻害されてしまうし、どれほど親しい間柄であっても心をそのままぶつけることは基本的に難しいものだ。
脳への適度な刺激としては悪くないので、たまに求めることはあるにせよ、私がのびのびと生きるためには、生活における比率は極端に低めに設定したとしても大きな問題は感じない。

それでは、窮屈でない言語的な営みとは何か。簡単な話で、それは自己対話だ。
今、私がやっている日記を書くという行為も、自己対話に近い。
具体的にどのようなことが起こっているかと言うと、心の中で発生している有象無象の考え事に向けて、表面的な部分で生きている私から伺いを立てるようなものだ。心の中とか表面とか、別に二重人格というわけではないけれど、私は思考パターンを同時に複数使い分けている。
これは特殊能力でもなんでもなく、まったく不思議なことではない……はずだ。たとえば、自分でも理解できない行動とか、突発的な閃きとか、そういうイレギュラーな現象は一般的に起こりうるものだと考える。これはつまり、当たり前だと思っている日常生活においてさえも、その思考は単一のパターンのみに由来するものではないのではないか、という考え方だ。
私はそれらを少し俯瞰しようと努め、そして今、自分が何を考えているのかという点について複数の視点を持てるようになった。

日記とは、心の中に秘められた何かしらの想いに対して観察をしたり疑問を投げかけたりすることで、本来は曖昧である「思考」を、言語という一つの形而下に引っ張り出す行為と言ってもよい。
書くたびに同じものは形作れないし、予想をしていなかった姿で顕現することも珍しくないないため、非常に新鮮味があって毎日の楽しみとなっている。


ある意味で、自分の中にもう一人、あるいは二人、別の自分を飼っているのに等しい。外見からは一人きりだとしても、思考を発するポイントが一箇所ではないため、自然と衝突が生まれる。自らの思考の内側で、異なる思考と巡り会う。そこに孤独感は存在しない。
もっとも、どこまで行っても自分は自分なので、これは一種の錯覚なのかもしれない。重ねて言うが、二重人格というわけではないのだから、どんな自己対話であっても元来の種は一つであるはずだ。
ただまぁ、なんというか言い訳をするなら、これはキャラクターに近いのかもしれない。創作物を生み出すのと同じように、自らの内面にバラエティに富んだキャラクター性を求める行為。一度、役割を持たせてしまえば、まるで息づく人間と大差なく縦横無尽に駆け回り、心や思考を凍りつかせないように熱量を発揮し、中心に鎮座する核となる「私」を豊かにしてくれるものだ。

物心がついた頃からの習慣みたいなものなので、もしかしたら普通の人には理解が困難な内容かもしれないけれど、それはそれとして、私は今日も自分の中に楽しみを見出だしている。