K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

無に帰した時間に捧ぐ

いつ以来だが忘れてしまったが、久しぶりに「夜に寝る」やつをやった。一日の睡眠時間が増えているから、正直なところ朝まで目を瞑っているだけで意識は保ったままだと思っていたのに、意外なほどにあっさりと眠りに沈んでいく。
どうしてだろう。身体のことだ。そんな風に理由を考えても、答えが見つからないことは多い。おかげで睡眠不足はすっかりと解消された。

 

それにしても、午前中の活動時間など私には望めないのかもしれない。
せっかく夜に眠れたのだから、これまた久しぶりに早起きをして有意義に時間を使えるかと思っていたのに。
今は何時だろうと、まだ眠りから完全に覚めていない状態でスマホの画面を確認する。それは、いつものように二桁を示していて、私から起き上がる気力を奪っていく。
眠るためにエネルギーが必要なのだとしたら、私のそれは明らかに常人を逸脱しているのではないか。そうだ、眠る天才に違いない。
まったく嬉しくもない妄想を巡らせて、けれど普段は就寝までに苦労することが多いことを思い出して、別に才能があるわけではないことに気づく。どうでもいい話だ。また、自分で決めた予定を守れなかっただけのこと。うんざりする。

ごちゃごちゃと考え事をしているだけで、不思議なほど脳は急に活発になる。あれほど重かった頭が、次第にすっきりと軽くなっていくのがわかった。
こうなればもう、こちらのもの。あとは布団から身体を出して、一瞬だけ寒さに耐えれば起床に成功する。
しっかりと眠ったのだから、気分は悪いはずがない。しかし、起きられなかったという事実は確かに受け止めなければならず、そのためか清々しいわけでもない。なんだか心身の状態があべこべで、すべてを放り投げてしまいたい。そんな感じだろうか。
そもそも、抱えているものなんてほとんどないのだけれど。

貴重な時間を無駄にした。それはとても罪深いことで、反省しなければならない。とは言っても、長い人生の中で一日くらいなら、とは思うのだ。今のうちに失敗しておけば、今後はより良くしていける。そんな幻想を頭に思い浮かべる。
幻想のままで終わらせないためには、今日からの毎日が重要になる。せっかく省みる機会を設けたのだから、活用しなくてはもったいない。なぜこうなったか、というよりは、こうならないためにどうすればよいか、ということに思考リソースを割く。
結局のところは、体内に規則を作るのが最も簡単な方法だ。規則で縛りすぎては精神が壊れてしまうけれど、制限が皆無では今回みたいに身体が異常な状態に陥る。改善策は、バランスのよい規則感を身につけること。その一択ではないだろうか。

自己対話という名の反省会を終えてから、まずは身体を維持するための食事を摂る。もう慣れたもので、それなりのエネルギーを確保しつつ適当に済ませるという芸当ができるようになってきた。
あまりいい加減なのはよくない、というのはわかっている。ただ、長期的に見て食事のために使う時間というのは、なるべく無駄を省いたほうがいいと考える。日々、必ず行う行為に関しては、味気ないかもしれないが趣味でない以上、短時間で済ませるに限る。
ルーティーンの簡略化は、手軽に余裕を生み出すために最も効果的な試みだ。

こんな思考を繰り返すことで、とっくに「頭ではわかっている」段階にはなっている。あとは実践するだけで、しかも基本動作ばかりなので「考えるほど簡単ではない」わけではないのだ。
身体が思ったように動くかどうか、動かせるかどうか。そういう初歩的な問題に過ぎない。
もう何日が経過しただろう。昨日の夜、今日こそは迷走から脱け出せるかもしれないと、ちょっとした希望を感じたのに。
明日こそは、と思うのはもう飽きた。そんなことを考えても一生報われる気がしない。決めるのも、やるのも、すべては自分であって言葉による強制力なんてないのだから。
ただその時になって、よしっ、と気持ちが前に向かうかどうか、それだけのこと。サイコロを振って、六が出るまで延々と待ち続ける。気分としては、そんな感じに違いない。

とても短い昼間の明かりが、今日もいつの間にか視界から消えている。
今この時にでも、サイコロを手に取るチャンスは転がっている。今か今かと思いはするが、しかし私は焦らない。
感じるのだ。もうすぐ、そこまで迫っている。