K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

断絶

最近よく考えるようになったことだ。
人というのは基本的に生きている身の周りの出来事、目の届く範囲の出来事にしか関心が持てないものだから(知らないことは知らないという当たり前の話)、自分の身を置いていない世界で何が起きているのかなんて、さっぱりわからない。
同じ舞台で生きているつもりなのに、実際にはまるで異なる舞台に立っていて、無意識のうちに棲み分けが出来上がってしまっている。

 

金融緩和によって金がじゃぶじゃぶ余っている世界と、低賃金で仕事に忙殺されてその日暮らしを余儀なくされる世界。
極端だけれど現実に起こっていることとして、実態経済が死に体なのに株価は最高値を更新するような状況がそれを示している。
金銭や労働の価値は低下し続け、このままでは持つ者と持たざる者の乖離は広がるばかり。
なんのために働いているのか……自分を見失いつつある人間は、いよいよ生き方を考え直すべきだと私は思うのだが、きっと彼らには別の世界を窺う余裕も術もないのだろう。運よく他方へ引き込んでくれる人間に巡り会うか、たまたま気が狂って既存の生活基盤に懐疑的な目線を持つか……いずれにせよ、なんらかのミラクルが必要なのかもしれない。

富や資産だけではなく、これは言ってしまえば何にでも当てはまることだ。井の中の蛙という言葉があるけれど、大抵の場合は外に飛び出すことができないまま終わるのだろう。
知識や技術の獲得・伸長といった個人の内側で完結しそうな闘争でさえ、外に目を向けなければ平凡以外のいったい何者になることができるのか。
本来ならどこまでも繋がっているはずの世の中だというのに、いったん決められた枠組みの居心地に慣れてしまうと、そしてそれだけが自分の生き方であり可能性である……などと誤認してしまうと、後から境界を越えることは困難を極める。
言われるがまま、世間の常識に流されるがまま、見える範囲の物事だけで自らが進む道を規定してしまったら、私がやったように一度すべてを捨てる覚悟で規範から脱却することでしか、お手軽に「気づき」を得ることはできないのではないだろうかと、確証はないが確信できるくらいには、世界は個人に対して辛辣なものだ。

偉そうなことを書いているけれど、私もまだ気づいたというだけで何も学習・実践できていない。
これからどのように生きていくのか、具体的に何をすべきなのか、疑問は無限に湧いてくるから、実際に有効な立ち回りを人生に適用できるように、世の中の複雑な動向を少しでも紐解けるように意識していかなければならない。


そういえば、先日からTwitterで話題になっている「Clubhouse」というiOS限定のアプリだが、これもまた一つの断絶を生み出しているように思う。
私はAndroidスマホ使用者なので、今のところは使う手立てがないわけだけれど……まぁ一応iPadで可能なのかな、それでも導入することはなさそうだが。
大きな特徴としては、使うためには既に参加している人間からの招待を受ける必要があるという点だ。そして、一人につき二人までしか招待することができない。
要するに、もともと優れたアンテナを持っている人と交流がなければ、興味があったとしてもなかなか参加権が得られないということで、少しずつ広まりつつはあるようだが、まだまだ入れない人が多数の状況らしい。
社会のトップ層に属する知識人は、いち早く情報を仕入れることができるし、人との繋がりが膨大であるため、それほど苦労せずに参加することができるのだろう。ほとんど黎明期である現在において、おそらく内部で交わされる会話は上流染みていて、ここでも「持たざる者」との差が拡大していく。
どこまで流行するかはわからないけれど、一般人に広まりきった頃にはもう、希少価値の高い情報を得るツールとしての役割は果たせず、Discordなどのコミュニケーションツールと大差ない、ただの選択肢の一つになるのではないかと考えている。

なんだか、接点のある人間から人間に、徐々に大きく拡大していくという特徴が某ウイルスのようで、一部の賢者たちだけで盛り上がっている不気味さと併せて、個人的には嫌悪感に近い感情を想起させられる。
これに関しては存在を知っていて気になっていても、許される環境にいなければ物理的に入れないという点でハードルが高い。
残念ながら今のところは、私には縁がなさそうだ。