K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

夢に侵食される現実

ああ、これは夢の出来事だったのか……そういう気づきが日常で起こることは、それほど珍しくない。
必ずしも、眠っている最中に見た夢の内容を起床直後に認識できているわけではなく、うっすらと頭の片隅に残った夢の一部が、日常のある場面において不意に思い出される……なんてことは、昔からよくあった。

 

それにしても、最近は露骨に増えてきたような気がする。
夢だったと気づくまでは、まるで現実に起こった過去の出来事のように、無意識のうちに考えているものだ。
もちろん、実際に体験しているわけではないため印象は薄味なのだが、うっかり記憶違いを起こしかねない程度には、リアリティのある夢が多くて困っている。

そもそも、私の日常における風景というと、その九割以上が殺風景な部屋を背景とした、PC前とベッドを往復するイメージしかない。
他には、風呂場やトイレやキッチンといった、わざわざ意識して記憶に留めるまでもない当たり前な生活の一部しか存在しておらず、はっきり言ってこの刺激の少なさで精神が正常を維持できているというのは、逆に頭がおかしい可能性すらある。
我慢できずに外へと飛びだしていくくらいが、健常者のボーダーなのかもしれない。

だから、夢の世界が現実味を帯びて充実しているのは、その反動だと考えることはできる。
私が真っ当な社会生活を送れていたら直面したかもしれない、様々な人との出会いやエピソードが、いくらでも融通の利く万能空間において、のびのびと描写される。
面白いかどうかはまた別の話になるけれど、情報量としては半日以上に及ぶ覚醒状態の時よりも多いくらいで、こうして分析してみると、脳内を占める記憶の印象が徐々に夢の中で目にした出来事に置き換わっていっていることに、なんら不思議はないのだ。

このような現状が長続きすると、いずれ夢と現実の区別がつかなくなっていって、事実認識がリアルと大きく乖離してしまう恐れはある。
確かに、こうだったはずなのに……そんな勘違いが多発するのは、生きづらそうという他にない。
今はまだ、両者の間に生じる些細な違和感から、それが夢という思い込みであったことに自ら気づくことができるけれど、夢のほうが豊かであるという傾向が強まっていったら、どうなるかわからない。

基本的に、事実と誤認するレベルで強く頭に染みついている夢の記憶は、どちらかと言うとポジティブな内容のほうが多い。
私の行動範囲において、決して起こり得ないとは言えない程度の出来事となると、対人関係が不得手な私でも前向きに捉えられるものになるからだ。
ただ、結局は夢でしかない。
何が言いたいかというと、せっかく明るい話題に包まれて、無味乾燥の日々が珍しく彩られるかと思ったら、急速に白紙へと戻ってしまう……そういうショックが毎日のように発生している。
そう、がっかりしてしまうのだ。夢であったことに。夢でしか、楽しくないことに。

 

主観的な感覚だが、見る夢の内容が少しずつ日頃の願望に近づいている。ああいう風になればいいのに。こうはならないだろうか。
意識と無意識の狭間に生じた僅かな想いを摘み上げて、夢の中で展開させてしまう。それはある意味、とても理想的ではあるのだけれど、同時に夢であることを認識した瞬間、大きな落胆を作り出す。
そして、図らずも知ることになるのだ。私が心から求めているものが、どのような出来事や出会いであるのかを。

これだけ毎日、日記を書いていて自己分析がばっちりだと思っていても、本当の本音に触れるのは容易なことではない。
私は絶対にこうだと考えていても、それが単なる思い違いであることは少なくないし、おそらくメンタルを保護するためなのだろうが、心の本質的な部分には意思で操作ができない特殊なプロテクトが常時かかっている。
それを貫通して、本心を抜き出す作業を簡単に実現してしまうのが、夢の世界なのだ。
自分では思いもしなかった……あるいは意図的に避けていたテーマであっても、躊躇なく眼前に突きつけられる。
まあ夢で見ている時点で、本質的には望んでいるということなのかもしれないが、こういう毎日が続く、なんとも自分が怖くなる。

夢自体は心地好いものがほとんどだが、いざ振り返ると夢でしかなかった事実に嘆息する羽目になるので、そろそろ加減してほしいところだ。
調整できたら苦労はしないのだが。