K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

移ろいゆく日々の中で変わるということ

良くも悪くも日本人らしくない。
久しぶりに再会したその人に対する印象は、意外な形で更新された。
よくよく考えてみれば、それは私がこれまでその人に好意を抱いていた最も大きな理由の一つで、意外でもなんでもないのだ。ただ、初めての出会いから何年も経過している今なって改めて認識したということに、私は特別な意味を感じずにはいられなかった。

 

どんな場所においても、容易に周囲の空気を作り変えてしまう人間がいる。
常識にとらわれない行動原理と、自身の目指しているところに対する絶対的な自信。目を離していたら、どんどん遠くへ行ってしまいそうな奔放な性格は、その態度から非常にわかりやすい。
外に向けて、常に自分というものの存在感を放ち続けることは、私からすれば最も忌避すべき行動に他ならない。私はいわば、対極のところにある性質を持っている。しかしだからこそ、相性がよかったのかもしれない。
決して交わらないどころか、普通に歩んでいたら乖離する一方であるはずの関係性が、互いの偶然極まる選択の果てに結ばれた。触れ合った後は、ただただ相互のエネルギーを使って複雑に絡まり合い、とうとう強固な一本の線になる。
運命の悪戯などという曖昧な言い方が相応しいのかわからないが、そういう不思議なことって本当にあるのだと思う。

私の性質と言えば、外向きにエネルギーを放出するその人とは反対に、常に内側に溜め込むようなイメージだ。この連綿と続く思考の捌け口たる日記を見れば明瞭な事実ではあるが、とてもではないが誰か他の人間に向かって話せる内容ではない。少なくとも発信している本人である私は、そう思っている。
そんな私の周囲からの印象は、何を考えているか読みにくい。底が知れない。ネガティブに評価をするなら気味が悪いということになるかもしれない。あるいは過剰評価されたり、大物の雰囲気などという具体性に乏しい印象を持たれたりすることもある。
実際のところ、私は高校卒業以降では他者に底を見せたことがない。何か凄いことを成し遂げるのではないか……そういう期待を浴びることは、決して気分の悪いものではないのだ。

その人は際限なくアウトプットを繰り返す。私とは真逆の意味で、底知れなさのようなものを感じることができる。
私は掘れば掘るほど深いところまで、その人は放っておけばいくらでも、何か価値のありそうなものが出てくる。
月並みな表現かもしれないが、その人の存在はまさに太陽なのだと思った。私にとっても、その他の周囲の人間にとっても。
それでは、私はなんなのだろう。普段は静かに目立たずあらゆる思考を内側に溜め込み、たまに条件が揃った時のみ莫大なエネルギーを放出する。地震みたいなものだろうか。
一つ言えることは、その人との付き合いは確実に人生を豊かにするということだ。価値判断に正解はないし人間を比較するのは難しいけれど、基本的にある人間が持つ内外へのエネルギーには、あまり大差がないものだと仮定する。しかし性格的な特徴として、外側に対する積極性を備えた人間のほうが得をしやすいのは世の中の理で、そうでない者は日の目を見る機会に恵まれない可能性が相対的に高くなる。
そういう意味で、私はこれ以上ない武器を手に入れることができた。自らでは作り出すことが困難な、強烈な潮流に加わることを許される。これほど幸せなことがあるだろうか。

極端であること、型にハマらないこと、「好き」や「愛」というものの心をそれなりに理解していること。共通点と言えばそれだけで、他は本当に正反対なのだ。なんて恵まれた出会いだったのだろう。
過去から現在までを大まかに省みて、人間関係について熟慮すればするほど謎が深まる不思議な状況は、きっと今後も解消されることはないような気がしている。
勇気を出したあの日から、運命が変わる音を聞いたあの時から、規定されたレール以外の道を模索することを私は世界から認められたのかもしれない。