K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

なんでもない特別な日

昨日は成人の日ということで、今年度に二十歳となる人間にとって特別な時間だったかもしれないし、かつての私のように興味なしという人もいたかもしれない。
いまさら成人云々について書こうとは思わないし、検索してみたら昨年の同日にガッツリ個人的な経験と想いを日記に残していたようなので、今後あえて言及することはないだろう。
ただ一つだけ言えるのは、成人式に行かなかった人間はその式典に対して、一生にわたる幻想を抱き続けるということだ。

 

Twitterでとあるツイートがバズっていた。
成人式に行かなかった人間は、何歳になってもそのアピールをするようになってしまうから、成人式には行くべきだという。
それに向けて様々なリプライが飛んできているけれど、成人式に対する考え方や、行く行かないの事情は人それぞれであるがゆえに、何が正しいなんてことはない。
ただ私が感じたのは、なんのネガティブな感情もなく成人の日や成人式を楽しめる人というのは、恵まれているということだ。
たとえば、小学校や中学校で仲の良かった人間との繋がりを維持できていることや、維持しようと思えること、あるいは自らに余裕があり不安なく参加できる状態であること……などなど、恵まれた環境要因なしでは手に入らないものが多い。

当たり前の話だが、行ったほうがいいかどうか、行かなかった私には判断ができないし、不参加だった人間の考え方は参加した人間には理解が難しい。
いくらでも議論があっていいとは思うけれど、両者の認識はどこまでも平行線を辿るに違いない。
結局これは、生まれてから成人するまでの無数に広がる選択の末に顕現した一つの結果に過ぎず、そして解釈はその後の生き方と価値観でも無限に変容するものだ。
だから、例のツイートに対する私の意見を述べるとしたら、個人の極めて自由な選択を俎上に載せて、普遍的な意味を持たせようとすること自体がナンセンスであると答える他にない。
もっとも、「行かなかった」という経験が歪んだ呪いとなることについて、特に異議はないが。

 

それにしても、成人前後のイベントには、あまり良い思い出がない。
成人式に関しては興味もやる気もなかったので私にも原因があるわけだが、親からの催促もなく過ぎてしまったように思うし、また二十歳の誕生日には些細なきっかけで親と軽い口論になって気まずい雰囲気のまま過ぎ去ってしまった。まともに祝われる機会を、自らぶち壊してしまったのだ。
だから私にとって、成人という通過儀礼は大きな意味を果たさなかった。そればかりか、一種の「大人になる」というイベントをスルーしたようなものなので、正直に言うと心はまだ子供のままなのかもしれない。
ゲームで例えるなら、必須ポイントをグリッチで飛ばしたまま先に進んでしまったがゆえに、フラグ管理がバグって化け物が生まれてしまったようなものだ。人生には過去のセーブデータなんて残っていないから、もう通常ルートに戻ることはできないのだ。

華やかな衣装で身を包んで次のステージに歩みを進めた若者たちと対照的な私の姿は、栄光とか輝きとか、いわゆるポジティブな言葉とは遠い場所にあるように感じるけれど、しかしながら人間や人生の評価はそんな画一的な価値判断のみに基づくわけではないということを、これからもユニークな選択の積み重ねによって、徐々に確信へと近づけていきたい。
そんな風に思う、新年早々の連休明けだった。