K's Graffiti

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承認欲求が欲しい

インターネットをトラブルなく利用する上で重要な要素の一つとして、承認欲求のコントロールが挙げられると思う。
一昔前、まだ匿名掲示板やニコニコ動画などが主流だった時代においては、固定ハンドルネームのように意図して特定の印象を与えようとしない限りは、個々人の発信が固有の色を持つことはなかった。
現代においては、かつての交流の場は人口が減り廃れつつあり、名前やアイコンを設定した分身を介してアウトプットを行うSNSが一般的となっている。もちろんSNSにおいても匿名性を確保することはできるけれど、根本的には昔のインターネットとは異なると言っていいだろう。

 

今の時代、私のように、ほとんど誰にも見られる可能性のない場所で延々と発信を繰り返している人は少ないだろう。
人間というのは本質的に他者との交流によって成長し、社会性を身につけ、あるいは高度な人間性を獲得したりストレスを解消したりするものだ。
だからインターネット上の活動においても、自然と他者との相互関係、相互作用を求めるようになる。当たり前の話だ。
しかし、リアルの人付き合いとは違って、必ずしも人となりが明確に共有できるわけではない。写真や動画、音声を駆使すれば対面のコミュニケーションと大差ない距離感を作ることができるかもしれないが、多くの場合、相手へのイメージは各々が設定しているプロフィール情報と、日頃の文字を使った発言によって構築されるはずだ。
そういう状況下において生まれがちなリスクは、相手により大きな自分を見せたいと考える心理になるだろう。

当人の細かいエピソードは、距離が近い実際の知人以外にはわからないものだ。
こんなことがあった。こういう結果を残した。その手のトークは、多かれ少なかれ誇張が入っている可能性を、インターネットの向こう側にいる聞き手は常に考慮しなければならない。
匿名掲示板時代は、事実と異なった情報が流れてきても、別に主張している当人への興味なんて湧かなかったから、なんでも構わなかった。けれど、アカウントという形でそれぞれが各プラットフォームに住所を確保できるようになったからには、まったく無視するというのは難しくなったと言わざるを得ない。
まぁ大多数のユーザーは、そんな面倒くさい意識を抱えながら使っているわけではないのだろうが、私は第三者からどう見えているかという点を絶対に気にしてしまう関係で、とうとうTwitterで呟くということができなくなった。

問題は、しかしながら大多数のユーザー側にあると私は考えている。
いやはや、誰とも触れ合わずに、一人きりで大丈夫というのは一般的な価値観を以て断ずるなら非常にマイノリティなことであって、人間として重要な何かが欠落していると言われても不思議ではないと私自身が感じているけれど、一方でSNS全盛の時代においては、そのほうが余計な失敗を回避しやすいとも思う。
本音を言うと、私も普通の感覚を持てるようになりたいのだ。どうして多くの人間は、あんなにも躊躇なく人目につく場所で他愛無い発信をしたり、衆目を集めるために派手な行動を取る気になれるのだろう。流石に度が過ぎるものはバッシングを受けるし、一般的とは言えないだろうが、少なくとも毎日のようにツイートしている時点で承認欲求が存在しているのは確かだろう。

Twitterだけでなく、動画サイトのライブ配信でチャットを送ったり、有償で目立つコメントを流したりする行為も同じことだ。
なぜなのだろう。いったい、どれだけ自己主張が激しいのか。これは文句ではない。そういう行為に対して感情的な理解がまったく及ばないから、ただ疑問に思っているだけだ。
積極的にネット上で発信を繰り返すのは、特にアクティブな若い層では珍しくない価値観のようだから、どうやっても真似できないことに息苦しさを覚える、というのが今回の日記で最も言いたいことかもしれない。

 

承認欲求の化け物が、度々どこかに出現する。それ自体は、きっとおかしなことではないのだ。
ある種、それは人間の本能とも言えるのではないか。何か行動を起こして、周囲の人間に認めてもらう。そして様々な反応が寄せられることに、この上ない快感を覚える。
もっと、もっと……と欲が肥大化していって、やりすぎてしまうパターンが目立つけれど、普通の感覚なら、似たようなものを求める心は持っているに違いない。
きっと理想はリアルにおいて自己実現を果たすことだが、現実的にはそれが難しいからネット上で工夫を凝らす。国民に名の知れた有名人でなければ、むしろネット上のほうが多くの人間の視界に入れやすいことから、コスパも優れているのだろう。
やはり現代において、規模や善悪は別にして、承認欲求を満たそうとする人がたくさん現れるのは自然な流れなのかもしれない。

私は目標にしていることがあり、その分野で成功したいという気持ちもあるけれど、最も重要なのは自分自身が納得できるか、満足できるかという点なのだ。
誰かに認めてもらいたいという考え方は、あまり強く抱いていない。ただ、これは現代において致命的な欠陥なのではないかと思ってしまう。
承認欲求というのは、大きな原動力にもなり得る。自分の心は気まぐれで変わるため、過去の私が決して認めないであろう結果を迎えたとしても、今の私なら受け入れてしまう可能性がある。けれど、他者からの評価というのは自らの気分では変動しない。それを掴み取るための試行錯誤こそが、長く活躍するための秘訣なのではないかと思わずにはいられないのだ。
どうやったら、承認欲求を発現させることができるのだろう。対人コミュニケーションの機会も経験も、年齢不相応に極端に少ないため、まったくわからない。