K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

不便な柔軟さ

私の生活リズム、活動時間が常識的な範疇を逸脱しているせいで気づかなくなっただけなのか、あるいは先月末に管理会社へ訴えたことにより改善されたのか、真相を知ることはできないけれど、先週の前半に帰宅してからの現在までの一週間は、隣人の存在をほとんど意識することなく過ごせている。
夏休みだから旅行にでも出ているのかと思いきや、たまに物音が聞こえてくるからそういうわけでもなさそうで、しかしながら以前のような露骨に「うるさい」感じはしない。
まぁ偶然という可能性もある。ただ、今のところは余計なストレスを受けずに済んでいるから、この状態が続いてくれるなら随分と生きるのが楽になるだろう。

 

それにしても、人間のストレス耐性というものは比較的柔軟に変化しているらしいことが、ここ数年の生活でわかってきた。
いや、主語が大きすぎるかもしれない。感覚は人それぞれなので、一概に言うことはできないけれど……少なくとも私の場合は、日常的な活動内容と生活環境によって、同じ出来事に直面したとしても受け止め方が大きく異なるものだという実感がある。
たとえば、多忙な期間は脳のリソースの大部分が目の前の作業に持っていかれるから、些細な事象は意に介さないものだ。その場合はもっと別の、大局的な意味において神経を逆撫でるような出来事について、とりわけ強く苛立ちを感じることになる。
一方で、時間に余裕のある期間には種々の細かい変化にも過敏に反応しがちだし、それらが己の性格や気質に反するものであるならば、ことごとくストレス源として認識するようになる。これは体感の話になるが、前者と比べてみると、困ったことに精神を覆うストレスの密度は大差ないような気がするのだ。
まるで働く蟻と怠ける蟻の比率のように、自分にとって厳しい状況でも楽な状況でも、日常を占めるストレスの度合いは変わらない。

ただ、ストレスの多かったと思われる時期を振り返ってみれば、どう考えても今はストレスフリーに等しい。
相対的な話ではなく、ストレスの絶対値として捉えれば何分の一になっているかわからないし、本来どうでもいいはずの瑣末な諸要素に気分を損ねる羽目になっている私の姿を客観視してみると、ストレス耐性が順当に落ちていることがハッキリと理解できた。
現在の生活環境なりに、私は私の心を覆う壁の防御力を調整しているらしい。

もし今後どこかのタイミングで苦労の多い状況に向き合うことになったとしたら、はたして私は迫りくるストレスを上手く処理できるのか一抹の不安は感じるけれど、おそらく負担が増えるに従って心身が壊れないように自然とバランスを取ろうとするのではないかと思う。
ゲームではないから、意図的にストレス耐性の数値を上げることはできない。それでも、社会的動物である限りは調整機構が作用するはずなのだ。

 

さて、いったん隣人というストレス源を無視するとなると、いったい私は何に対してネガティブな感情を抱くようになるのだろうか。
実は、ここ数日の間に若干その傾向が見えてきている。
具体的にコレという風には言えないのだが……インターネット上に蔓延る教養に乏しい発言や日本語の誤謬がそれに該当しているような気がする。
ネット記事やTwitterないしYouTubeを開いて有象無象の発言を読んだり聞いたりして、情報を脳にインプットする際に起こる奇妙な引っかかりが、それだ。

以前は気にしなかったレベルの僅かな違和感を目の当たりにして、精神が汚染するのを感じる。
お願いだから、ちゃんと言葉を使ってくれ。なんだその言い回しは。アクセントがおかしい。意味が違う。活用できていないではないか。本当にお前ら日本語ネイティブなのか。頼むから、そんな気持ち悪い表現は勘弁してほしい。お願いだから。

正しい日本語表現だとか、きれいな言い回しだとか、そういうものにこだわる傾向は元来から備わっていたのだけれど、ここにきて他にストレス意識を割く対象がなくなった結果、より強く言葉の「正しさ」を追い求めるようになってしまったらしい。
かつて無意識のうちにスルーできていたはずの、些細な間違い……それらを鋭く知覚できるようになった今となっては、世の中には想像以上に誤った表現が溢れていると自信をもって言うことができる。
ああ、気持ち悪い。