K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

雨の日✖

目を覚まして外の景色を確かめると、雨が降っている。どんよりと暗く重苦しい空気を感じて、元気を出すモチベーションを奪われる。
起床したのが朝ではなかったから、ダメージは相対的に少なく済んだかもしれない。起きてから間もなく、太陽は沈んだ。
これが朝方であったら、どれだけ今日という日にネガティブな感情を抱いていたかわからない。朝と起床の乗算は一日の大きな活力にさえなり得るけれど、雨という環境要因ひとつで、その勢いは急速に失われかねないものだから。

 

朝、目が覚めてから雨が降っていることを知ると、途端に気分が萎える。憂鬱という現象を最も手軽に知ることのできる、空からの嫌な贈り物だ。
外出を回避することのできない学生時代、通勤労働時代において、それは日常に介在するノイズの一種だった。
雨の中を歩く。場合によっては靴の中までひどく濡れるし、滑って転倒することもある。そういう時に、私はふと、自らを客観視することがある。まるで神の視点になったような気分で、雨水に為す術もない自分のことを冷淡に見つめるのだ。なんて、哀れなんだろう。惨めなんだろう。
普段はあまり好ましいと思えない学校や会社といった領域が、この時だけは神聖な場所にすら思える。前向きなエネルギーを吸い取る雨天の外界と比べると、そこは天国に近い。到着して得る安堵感は、雨の日に特有のものだ。

雨が降っているから、調子が上がらないから……適当に理由を付けて、布団から出ない選択肢があるというのは、実に幸せなことなのだろう。
いや、この状況を手にしているのは、普通の人間が当たり前のように得ている多様な権利を犠牲にしているからこそ可能なのであって、決して人間的に恵まれているわけではないのだけれど、それはそれとして、個別の一日を評価するなら、今の私はこれまでの人生において最も、雨による憂鬱から程遠い。
今日だって、ああ雨が降っているよ、嫌なことだ。その程度の感想しか出てこなかった。気分が上がらなければ、上がらないままに過ごせばいい。無理をする必要なんてないのだから。
こういう生活を続けていると、徐々にストレス耐性が落ちる気がしないでもない。たとえば昨日のように、どうしても買い出しに行かなければならなくなったとすると、雨に対する苛立ちは以前よりも大きいように思う。
我慢できないわけではないが、たまには意図的にストレスを作り出していかないと、人間強度が落ちるかもしれない。

 

濡れることを大して気にしない幼少の時分には、雨を嫌がらない自分がいたのだろうかと考えた。
雨合羽を着て、長靴を履いて、わざわざ水たまりを踏みつけながら、親の傍らをトテトテと歩く私の姿がぼんやりと頭に浮かぶ。
これは記憶の彼方から引っ張り出してきたイメージなのか、断片的な要素から構築した妄想なのか……知る術はないけれど、実際に存在していたとしても不思議ではないと思った。

いつから、雨が駄目になったのだろう。
明確なきっかけはないにせよ、小学生の頃には濡れることのデメリットを自覚していたはずだ。
デメリットがあるのに、わざわざ濡れに行かなければならない。毎日、人間を外に駆り出すことを強要する社会のシステムが、雨天への否定的な感情を肥大化させているのかもしれない。