K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

忘れられていても私は忘れない

早いものでカレンダーの上では季節が変わるということで、特に変化が起こりそうもない私の生活とは対照的に世の中は進んでいく。
実際には、変えようと思えばいくらでも、明日からでも変えられる自由度と可能性を手にしているのだから、もし私の中身が活力に溢れた誰かと入れ替われば、すぐにでも生活は一変するだろう。
残念ながら、今の私には猛烈な勢いで活動を起こせるだけの熱がなく、仮にモチベーションが高まったとしても耐えられるだけの体力はないわけだが。

 

自発的に変化を作り出していくには、だから相当な時間を要すると考えている。
数週間や数か月ではなく、年単位の……しかしながら期間が長引くほど余所見をしたり、具合が悪くなったり、何かとイレギュラーが間に挟まる確率も上がるため、最初のプラン通り順調に進められる確率は皮算用できないほど低いのが明らかだ。
ある程度の無駄を織り込んだ上で、遠回りをしても焦らないだけの分厚いメンタルを用意しなければ、そもそも途中で病んでしまうだろう。
そういう意味では、まだ私の心にヒビは入っていない。先行きは不透明だし、どれだけの時間を費やす必要があるのか予測は困難だが、それでも私が私でいる限りは大丈夫だという自信がある。

さて、そうした己だけの領域とは異なる話については、一定の速度感で事態を解釈しなければならないだろう。
理由があって具体的に書くことはできないのだけれど、過去の日記と表現を合わせるのであれば……例の案件についてだ。
とあるプロジェクトの一端における、重要な役割を担うことになるかもしれないという、ちょっとしたビジネスの案件なのだが、ご時世的な問題もあって遅延に遅延を重ねた結果、後回しになったまま続報が途切れているというのが、端的な現在の状況ということになる。
とりわけ融通が利きやすいということで、謝罪とともに延期を押し付けられた私の立場は、待機以外に何も行動する術がなくて退屈そのものだ。
いつ連絡が来るか、まるで見当もつかない。いざスタートすれば忙しくなるに違いないのだけれど、人的リソースの問題で迂闊に開始するわけにはいかず、他のプロジェクトが軌道に乗って猶予が生まれたタイミングでしか計画を進めることができない。
最悪、このまま一生……なんて、あまりにも放置期間が長いと徐々に希望を失ってしまうから、最初に話を貰った時点と比べたらすっかり後ろ向きな心持ちになってしまった私だけれど、もし明日にでも始めたいという声さえかかれば、即座に対応できるだけの心の備えはある。

Googleで検索してみると、先方の活動内容を調べることが完全に不可能というわけではないけれど、直近の具体的な動きを探るのは至難の業だ。
公開されている情報が少ない。昨年の記録は残っているのだが、今はまったく別の分野を手掛けている可能性も低くないし、半分以上は部外者である私が察知できることはほとんどないのだ。
知りたいなら、尋ねるしかない。教えてくれるかわからないが。

 

前回のやり取りが、確か六月頃だった。それも数か月は待たされた末、こちらから進捗状況の連絡を求めたものだったが、結論から言うと、不測の事態が立て続けに起こって手が回らない、などということではぐらかされてしまった。
落ち着いたら連絡する。時期はこのくらい。
その時点の想定で適当に返事を寄越されて、私はそれ以上、追及することができなくなる。
案件の是非を握っているのは、私ではないのだから。ただ依頼を受けたら、応じるだけ。あちらが本気ならない限り、私が本気になる理由は生まれない。

私が普通の感性を持つ人間だったら、もっと違うコミュニケーションを試みたのだろうか。あるいは失望し、縁を切るかもしれない。
中途半端なのだろう。私は。しかし、私は私がやってきたようにしか他者と関われない。
必要以上にアクションは起こさないし、放置されるなら待ち続ける。客観的に考えてみると、何も良いことなんてない。馬鹿みたいだ。
他者に興味がなさすぎる。そのわりに、一度でも出来た関係性に異常なほど拘泥する。決して、こちらから近づくことはしない。けれど、相手が私を見失わない程度の距離は保ち続けようとする。

もう秋になる。
そろそろ、また訊いてみよう。