K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

目減りする上限

時間は有限だ。
己の身体は一つで、やれることには限りがある。当たり前の話だけれど、現実的に考えてみると恐ろしいもので、死ぬまでに残り何十年もあると仮定したとしても、おそらく本当に実行できる「やりたいこと」は思いつきのうち一握りに限定されてしまうだろう。
そして、その行為に従事していない時には常に、現実的な意味で取り組むことのできる上限が、少しずつ減少していくのだ。

 

生きている間に読める本の数、見ることのできる映画やアニメやドラマなどの映像作品、描ける絵、書ける文章、口にする食べ物、会える人の数や他者とのコミュニケーションでさえ無限ではない。
考えてみたところで厳密にいくつ、と数字が出てくるわけではないけれど、物理的な限界というものは確かに存在する。
世界中の書物を読み漁ろうと、一日の半分を読書に充てるとしても……寿命が尽きるまでの時間から概算すると、せいぜい5万冊から10万冊の範囲に留まるだろう。人によって読む速度は異なるし、本の内容も様々だから一概に断ずることはできないが、どれだけ多めに見積もったとしても、世に出回っている書物のうち僅かしか触れることは叶わないだろう。
映像作品なんかは一本あたりの拘束時間が2時間程度に固定されるから、融通が利く読書よりも、より一層の制限がかかる。
私の場合は読むスピードが遅いから、きっと読書と映画鑑賞で上限に大きな差は生まれないだろうけれど、いずれにせよ他の趣味に時間を割り当てる度に上限は半減していくと考えれば、現実的に消化できる作品数は数百本から数千本の範囲に収まってしまうだろう。
これでは、すべての「名作」に触れることすら、きっと不可能だ。

こうして日記を書いている時間は、文章を書くという行為の上限を維持する働きを持つけれど、その一方で他の行為に費やせる時間を相対的な奪っていることになる。
身体は一つで、同じ時間軸に専念できる行為は単一という法則がある以上は、生きれば生きるほど数々の「やりたいこと」の可能な範囲が狭まっていくのだ。
眠るだけ寿命が伸びるという説があるから、睡眠だけは例外かもしれないが、起きている間のあらゆる活動は、将来的な他の活動に費やす時間を犠牲にした上で成り立っている。
まぁそんなことを事細かに気にしていたら何もできなくなるし、今この瞬間の一分一秒が経つごとに惜しいという気持ちが倍々に膨らんで発狂してしまいそうになるから、深く考えすぎないほうが精神衛生的には好ましい。

 

それにしても、この考え方を逆からなぞっていくと、過去を振り返った際に「あの時あれをやっていれば」という後悔に繋がるような気がする。
人生には回り道とか無駄といった、一見すると現在進行系では役に立たないと思われる行為が、実は巡り巡って必要だったというケースもあるから、単純に他の行為を圧迫しているように見えるからと言って、「くだらない今」を過剰に卑下するべきではないのかもしれない。
後になって無駄を惜しむにしても、部分的に切り取れば小さな目的達成のための努力であったり、刹那的な快感を追求だったり、それ自体が完全に悪だとは思えないのだ。
今の私と将来の私、あるいは過去の私の判断を比べた時に、絶対的な正解が見えてくることはない。物事の価値は自らの内部においても相対的に変化するものなのだから、人生に最適解を求めることなんて不可能に近いだろう。

なんて、無駄の多い現状を擁護する思考を練ってみるけれど、不断に生じる実現可能上限の減少という現実からは逃れられないし、どうあがいても理想に届かないことへのストレスは、やはり私のような考えすぎる人間には身近すぎる。
もう少し、余計に頭を使わず気楽に生きられたらいいのに。