K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

習慣としての飲酒

私は酒を飲まない。
体質的に一切のアルコールを受け付けない、というわけではないのだけれど、それほど強いわけでもないし、飲酒の翌日には体調を崩しがちだから、わざわざ飲もうと思わないのだ。
大学時代には、人付き合いの都合で月に何度か飲酒機会はあったものの、卒業後は飲み会イベントなんて滅多に発生しないものだから、めっきり飲まなくなってしまった。

 

おそらく一般的には、大学時代の飲酒経験をポジティブなものとして受け取り、人付き合いに関係なく酒を飲むという行為が日常の一部になることが多いのだろうと思う。
一日の締めにはビールが必須だとか、あるいはストレス解消目的でアルコールの力を借りなければならないとか、それを習慣化している動機は個人差が大きいところではあるだろう。
飲めないわけではないのに、まったく飲もうと思わないという人間は、どちらかと言えば少数派であるように感じる。

アルコール飲料は、身も蓋もない言い方をすると毒素でしかない。
酒の味を好む、という感覚がよくわからないので、勘違いしている部分もあるかもしれないが、多くのアルコール常飲者が求めているのは、きっと飲酒後に独特の昂揚感に違いない。
心拍数や体温を上昇させ、神経の感度を強制的に緩めてフワフワとした世界に突入させる。個人的に、それは決して心地好いものではないのだけれど、これだけ酒が人類の歴史と密接な関係を築いている以上、普通は手軽に多幸感を手に入れる手段として有効なのだろう。

それにしても、不思議に思うことがある。
たまに「飲まないとやってられない」といった言葉を目にすることがあるのだけど、本当なのだろうか。
だって、私は飲酒しなくても問題なく生きている。そもそも酒が飲めなかった頃、幼少期や成人前の学生時代には、酒を欲することなってなかっただろうに。単純な話、酒は生きるのに必須のアイテムではないはずであり、それを必需品として捉える生活は正常の状態から歪んでいるということになるのではないだろうか。
やや過激な言い方かもしれないけれど、大人になったら当たり前に酒を飲むし、飲まないほうが珍しい……そんな考え方に、私は強く違和感を覚えるのだ。
あくまで嗜好品であって、ゲームやタバコなどと同様に刹那的な欲を満たすためのツールでしかない。そういう意味で酒好きを否定する意図はないが、食事や睡眠などの生きるために欠かせない営為と並べて語ることはできないだろう、ということを書きたかった。

 

真偽は不明だが、酒は本質的に害でしかないという研究結果が出ているという話を聞いた。
昔は、少量であれば血行促進効果があり健康的であるという説もあったようだが、冷静に考えればおかしな話だ。
毒を体内に取り込んでいるわけだから、飲酒習慣が将来的にもたらすものは、蓄積された身体へのダメージに由来する疾病に他ならない。
血行促進を求めるなら運動をすべきであって、健康的に生きたいなら一滴も飲むべきではない。
まぁこの考え方は、飲酒がストレスの解消方法にならず、むしろ酒を飲むと具合が悪くなってストレスの原因になりかねない私だからこそ生まれるものであり、生き甲斐をアルコールに求めている人からしたら理解不能な思考なのだろう。

両親は毎晩、缶ビールを飲む家庭だった。酒に嫌悪感を抱くようには育てられていないし、大学時代も周囲は普通に飲める人ばかりだった。
しかし、私は酒を積極的に欲する性格にならなかったのだ。環境は私を酒飲みにしてもおかしくないというか、むしろ日常的に飲むようになるほうが自然とも言えるのに、なぜこうなったのだろう。
生まれつきの性質なのか、あるいは好きになるための経験がどこか不足していたのか。

今後も自ら酒を購入することはないし、家で飲もうという考えに至ることはないだろう。
数少ない人付き合いの中で条件が整った場合に限り、飲酒するかどうかの選択肢が目の前に現れるはずだ。
なお、このままの生き方では、飲み会に参加する確率は年に一度よりも少ないくらいなので、あまり考える必要のないことではある。
どちらかと言うと、飲酒習慣のない私の健康状態が、酒を飲む一般人の平均と比べて将来的にどうなるか興味がある。