K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

面白くなくていい

予告通りというか、なんというか……特に気になった話題や出来事もないので、昨日の最後に少し触れた「オチ」について書いていこう。
厳密にはオチというよりも、「何か面白いことを言わなければならない空気感」のほうが近いかもしれない。日本社会においては当たり前のように会話の前提となっているような気がする、クソみたいな慣習の話だ。

 

昔の話だが、確か中学生の頃だったと思う。クラスメイトとの会話で、私がとある主張を述べた後に、「それで?」という反応が返ってきた。
私としては、言いたいことは言ったつもりだったのだが、どうやら相手は話のオチを求めていたらしい。その人にとって面白いと思える展開で締まらなければ、わざわざ話を聞いた意味がない。そんなことを言わんばかりの口調だった。
しかし、私としては別に面白くある必要なんてないのだ。ただ意見を口にしただけであって、それ以上の余計な盛り上がりなんて求めていない。
一部の相容れない人間には真面目すぎると思われそうだが、私は日常の他愛ない会話なんかに、面白い要素……換言すると、周囲にウケる要素とでも言えばいいだろうか、本題から外れた小ネタを差し挟む必要なんてないと考えている。
くだらないことで笑って満足できるお調子者なら、それでも構わないのかもしれない。しかし、伝達速度の遅延やメインテーマからの脱線といったリスクを受け入れてまで会話に面白さを追求することに、私は一切の意義を感じないのだ。

某YouTubuチャンネルで定期的にアップロードされる動画について、私が毎度のように感じる不満点を挙げたい。
制作関係者が関西の人間というのも多分に影響しているように思われるが、ほとんど必ずと言っていいほど、私にとっては不要なバカみたいなやり取りに尺を使っている。
そんな茶番は要らないから、さっさと本題に入ってほしい。いつも思うのだけれど、動画を作っている人間はあれが面白いと感じているのか、やめる気配はない。
常に隙を窺って周囲に笑いをもたらそうとする努力は、文字通りに受け取るなら大層な心がけではあるのかもしれないが、現実的には失敗することがほとんどだ。たいていスベっているし、仮に笑いが取れたとしても、私個人が幸せになることはない。

私は経験がないのだけれど、会社によっては新人に飲み会で一発芸を強要することがあるのだという。流石に昭和的すぎるから、最近は減っていそうな気もするが……とにかく、人間社会の少なくないコミュニケーションにおいては、その手の気持ち悪い盛り上げを強いる同調圧力が潜んでいることは間違いないだろう。
私の感覚では、普通にしていれば余計な波風は立たず、場が荒れることもなく、心を平穏にしてイベントを終えることができるはずなのに……状況を区別することなく、ことあるごとに面白いネタを入れ込むことが絶対的な正義だと勘違いしている価値観の人間が、この世には一定数、存在するのだ。

 

無理やり盛り上がれるポイントを作らなければ、つまらない。そんな風に考える人もいるだろうが、別に私は常に面白く感じたいと思って生きているわけではない。
何かこう、目の前の出来事に楽しみを覚えて満足する……そういう娯楽を求める時には、それに相応しいシチュエーションを自ら用意するものだ。
ゲームをプレイしたり、アニメや映画を観たり、小説や漫画を読んだりする。あるいは行楽地を訪れたり、ボウリングやカラオケなど専用のサービスが受けられる店に足を運ぶ。
一連の「楽しい」流れの中で、さらなる楽しみのエッセンスとして笑いを求めるのであれば理解できるのだ。
逆に言えば、そうでないタイミングでは一切の笑いなんて不要だと考えている。メリハリは大事だ。遊ぶ時には遊び、真面目に取り組む時には真面目に全力を出す。
中途半端に混ぜ合わせて無駄にエネルギーを使っていたら、いずれ疲弊が蓄積して身体が動かなくなってしまうだろう。

本人は無意識なのかもしれないが、文脈にそぐわない笑いや、くだらない会話のオチを常に強要してくる人間は、以上の理由で私が心から嫌うタイプなのだ。