K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

親戚集会

正月の典型的な行事とも言える「親戚の集まり」というやつに参加してきた。昨年は怠慢のため、一昨年はコロナの影響で控える風潮があったため、個人としては三年ぶりとなる。
親の実家には、幼少期は長期休暇の度に遊びにいったものだったが、中学高校と歳を重ねるにつれて親戚と会う頻度は徐々に減っていき、もっぱら成人以降は数年に一度しか訪れることはなくなっていた。

 

久々に顔を見せることで、一見すると相手が喜ぶ姿を観測することはできたけれど、一方で私の心は終始、閉ざしたままだったように思う。
一応は血の繋がりのある人間たちが集まっているわけで、まったく赤の他人というわけではないのに、それでも自己主張は最低限に留めておきたいという気持ちが強い。年齢の大きく異なる複数人が存在していて、喋りたい人間が好きなように喋る空間では、私のように目立ちたがらない「陰キャ」は途端に居場所を失う。それは親族が集まる場においても、決して変わることのない性質だ。
たまに、思い出したかのように唐突に質問を投げかけられて、機械的に回答するシーンは何度かあった。しかし、私の出番はその一瞬で終わってしまう。あえてこちらからアウトプットする情報はなく、特に周囲へと質問したい項目もない。そっとしておいてほしい。
「なんとなく話しかけづらいオーラ」を発するのは昔から得意なので、日が暮れて帰宅する頃合いになるまでずっと、基本的には口を閉ざすスタンスを変えることはなかった。
消極的すぎるとか、暗いとか、別に今さら思われたところで何も感じない。私が活発なコミュニケーションを取りたがらない性格であることは、なんとなく皆、察しているところではあるだろう。
親戚との付き合い方や距離感は、家庭によって随分と差が大きい部分だろうが、私に関して言えば、現在のところほとんど他人に等しいのだ。

ありがちな問題だけれど、正月ということもあって特別に大量の食事が用意されていて、ゲストである我々は頻りに食べることを強いられる羽目になる。
遠慮しないで食べるように言われるけれど、逆に遠慮せず物申すとすれば、きっぱりと「もう要らない」と主張したくなるのは私だけではないだろう。
明らかに、その場にいる全員のキャパシティをオーバーする食べ物の数々に、初めは豪勢に見えて素晴らしいと感心するかもしれないが、次第に苦しくなっていく。そして大皿の上に残されて、長く空気に晒され放置される品々のことを思うと、とても悲しい気持ちになる。
普段から少食の私が、いきなり大食いを求められたところで対応できるはずもなく、それは周囲の親戚にとっても類似する問題のはずだった。誰もが、自分はもう無理だが、他の人間にはもっと食べてもらいたいと思っている。
毎回のことだろうに、どうして用意する量の見立てを誤ってしまうのだろう。

 

沈黙を貫いていたとはいえ、昼から夕方まで空気を演じ続けるのも難しいわけで、隙を見つけた親戚の何人かが私に寄ってくる場面があった。
しかしながら、私の現状は芳しいものではない。他人に説明できるような成果は何もないのだ。
たとえば最近の調子について尋ねられて、なんとも歯切れの悪い表現で返すことしかできなかったのは残念の一言に尽きる。
それぞれが近況を発表しなければならないというのが、こういう集まりに気が進まない理由のひとつとなる。今回は全員が参加する話題の中ではなく、局所的に個別の形式だったから幸いではあったけれど、会話の巡り合わせによっては大恥を掻きかねなかった。
もちろん、堂々と話せる身分を持たないのは、自分自身に大きな責任があるわけだが。

それにしても、帰宅してからあらためて振り返ってみると、特筆するような目ぼしい出来事は起きなかった気がする。あまりにも無難だった。一週間後には忘れていそうなくらい、薄い印象しか残っていない。
はたして、私が家族に付き添った意味はあったのだろうか。あの場に私が不在でも、滞りなく今日と同じ流れで時は進んでいたのではないか。あるいは私がいないほうが、もっと明るい空気感が生まれて参加者にとって素敵な時間になったのではないだろうか。
せっかくの親戚が集まる貴重な機会に、暗い空気を持ち込んで水を差してしまったのではないか……そんなネガティブが気持ちが浮上しては沈んでいき、しばらく私のメンタルに擦過傷を引き起こしそうな雰囲気がある。