K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

好きな歌声との邂逅

遅まきながら、先月下旬に発売された南條愛乃の5thアルバム「ジャーニーズ・トランク」を聴いた。
南條さんの歌に関しては昨年の五月頃、ちょうどfripSide卒業が話題になった際に書いた覚えがあるけれど、個人的に好きなアーティストとして、かれこれ10年近く歌声を追い続けている。
知名度はfSとしての活動が圧倒的だが、私は南條名義での楽曲も非常に気に入っているのだ。

 

収録されている曲を一通り聴いてみて思ったことは、彼女の歌声や表現における新発見だった。
明らかに、前回のアルバムやfSの曲とは歌い方が変わっている。これが意図的なものなのか、あるいは喉の具合に変化があったのかは知らないけれど、過去の楽曲と比較して判断するならば、かなり強めに好きと言える内容だったと感じる。

言い方が悪くなるけれど、fSの終盤は喉の調子が心配になるくらい、声が出ていなかったように思うのだ。
音量の問題ではなく、かつて私が好きだった魅力的な声音が影を潜めてしまった、という感じだ。特にfSは高い音を多用する傾向にあるため、喉を壊さないように無理のない発声に少しずつ変わっていったという見方もできるかもしれないが、いずれにせよfS終盤は表現の幅が一定の形に狭まってしまい、どの曲を聴いてもパッとしない状態になっていたという事実があったことは、私の感性においては否定することができない。
そして、ある意味で特徴的なその歌い方は、個人名義のアルバムにも少なからず影響を与えていたのではないかと私は思う。決して歌そのものを貶めるつもりはないし、あれが好きなのだという人もいるとは思うのだが、たとえば4thアルバム「A Tiny Winter Story」では、私の好きな歌声を聴くことはほとんどできなかった。

fSにとらわれることのなくなった今の南條さんは、今回のアルバムでは様々に声色を変えながら伸び伸びと歌っている印象を受ける。
押さえつけられていた表現力を爆発させたようなイメージで、どの曲も方向性が異なるから個性的に感じられるのだ。
喉は消耗品であり、使っていたら声の質は変わっていく。一般人は当然のことながら、プロの声優や歌手にしても、昔と比べたら声に変化が表れるのは珍しくない。10年前の歌声が好きだったからといって、今の歌声を同じように気に入るかというと、そうではないのだ。
そういう意味では、随分と久々に歌声を素直に良いと感じることができた。

近年、特に気になっていた声の違いについては、fS公式のYouTubeに上がっている「only my railgun -version 2020-」というものを聴けば、わかりやすい。
何しろ「親の声より」というレベルで聴いたバージョンはリリース当時のものなのだから、そこに違和感を見出してしまうのも無理はないのだ。
まぁこれは好みの問題であって、どちらが正解ということはない。

歌い方が10年前に戻ったというわけではないのだが、少し前の面白くない歌い方でもない。
「新生」と呼んでもいいかもしれない南條さんの新アルバムには、だから非常に満足することができたし、今後ますます広がる可能性のある表現の幅には、今一度より大きな期待感を持っていきたいと感じた。

 

正直、日頃の生活から通勤という習慣がなくなったことで、ここ数年は音楽を聴く時間が激減してしまっている。
もともと若者に流行りの楽曲などにはトコトン疎くて仕方なく、大学時代なんかはオタク以外の人間とカラオケに行くと、まったく歌える曲がなくて困ったものだった。
そんな私が追っている数少ないアーティストが南條愛乃と、それから過去に別記事で書いた水瀬いのりなのだ。
この両名に関しては、私が音楽に触れるモチベーションとなっている。

ランキングに入るような曲は何も知らないず、特定のアーティストだけ聴き続ける物好きは……偏屈なオタクには少なくないのではないかと思っていたけれど、意外と私くらいのものかもしれない。
最近だと「結束バンド」が売れまくっているようで、多少は世間との乖離が埋まったと感じられなくもないけれど、基本的に幼少期から音楽を知らない人間だったし、今後も変わりそうにない。そういう人生なのだと思う。
周囲と共有するよりは、ひたすら己の「好き」に執着し続ける。悪くない。