K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

沸点

物事に対する反応は人それぞれで大きく異なる。各々の持つ知識や経験、基本となる性格が千差万別なのだから当然ではあるのだけれど、この個人差が場合によっては非常に厄介な障害となりうる。
こういう事象に直面したら、このような反応を示すだろう。そうやってなんとなく想像するパターンが、実際には表れないことが珍しくないのだ。

 

一般的な感性、感覚において、おそらく万人に当てはまるであろう出来事もないわけではない。
何が不都合な事態に陥ったら機嫌が悪くなるし、大切なものを失ったら悲しむ、あるいは攻撃されたと感じたら憤るものだろう。
直感的に、深い思考を通さず反射的に表へと出す感情については、特に他人との大きな差異を感じる部分ではない。

私がズレを認識するのは、そうした生理的反応によらない、やや頭を使った判断をすることになる場面であり、これは私が昔から集団に溶け込みづらい生活を送ってきたことの大きな要因なのではないかと考えている。
パッと思いつかないので具体的なケースを列挙することはできないのだが、抽象的に結論から言うと、私が落ち着きすぎているという話になる。少しネガティブに言い方を変えると、反応が薄いとか、静かすぎて面白くないとか、何を考えているのかわからず不気味とか、そのような表現になるだろう。
実際のところ、過半数の人が顕著に反応を露わにするシーンにおいて、私は微動だにしないことが多い。それも、ただクールに装っているというわけではなく、本当に心が動いていないことがほとんどなのだ。
喜怒哀楽、あらゆる感情の反応において、おそらく沸点が高すぎて客観的に観測することが難しいのだと思う。私としては、むしろ平均的な人間の感情表現が過剰とすら思ってしまって、見ているだけで疲れてしまうくらいなのだが。

すぐに声を荒げる短気な人間は腐るほどいるし、くだらないことで馬鹿みたいに笑い転げる人間もいる。
どうして、その程度のことで騒げるのか理解に苦しむのだけれど、どうやら世の中では感情が豊かであるという風に評価されることのほうが多いようだ。
私だって何も感じないわけではない。しかし、何かしらの出来事に直面した時には、それが目の前で発生するに至った背景や、関わっている人間の細かい所作などに思考が向かってしまうのだ。素直に事象を受け止めて、心の内面と衝突させて、わかりやすく感情表現を発生させるというプロセスが、私の内部では上手く行われない。

事実としてどうなのかは、知る由もない。
ひょっとしたら、ウケがいいという理由で、感情を表に出す行為を意図的に努力してやっている可能性もある。あるいは何も考えず、見たもの聞いたものに対して感じたことを整理することなく、そのまま垂れ流している不器用なのかもしれない。
他人が内心で何を思い、何を考えているのか……そんなことは絶対に知ることができないのだ。
だから、意味なんてないだろう。私が無理に周囲と同調することも、内側に生じた些細な感情を示すために出力を上げることも、意味なんてない。

 

そうそう、忘れるところだった。私が唯一、感情表現をスムーズに発露できる条件がある。
それは、創作世界に浸っている時だ。
小説でもアニメでも映画でも、物語ならなんでもいいのだが、私が強い没入感を伴って作品を楽しんでいる時に限って言えば、通常の生活ではありえないくらいに増幅された、強大な感情が噴出することがある。

創作物の中に精神を委ねることで、私の主観を支配する思考は現実世界から解き放たれて、感情を制御する機構は作品内の神視点に移行する。
登場人物の経験する出来事を間接的に体験し、そこで描かれる起承転結にごく自然な形で寄り添う……それが感情移入というものなのだろう。
普通なら思考という何重にも組まれたフィルターを通過する必要がある物事を、創作世界に浸ることでパスできるのだ。要するに、心で感じたことのすべてが直感的な反応として外側に返っていく。

私が最も人間らしくいられるのは、物語を楽しんでいるタイミングしかないのかもしれない。