K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

生存記録(20230925)

食に関心がないということは、つまり食べられるならなんでも構わないということでもある。もともと苦手な食材が多いため実際には「なんでも」とはならないわけだけれど、取り立てて好きなものも特にないため、こだわりはない。咀嚼の際に嫌悪感を覚えないものであれば、味を気にすることなく機械的に食することができる。
なるべく食事にコストをかけたくない。それでいて、生命維持ができる栄養を摂取できれていればいい。そういうわけなので、誇張抜きでほとんど毎日、私は同じものを食べている。食事の優先度が極めて低く、こだわりがないために、そこに「飽き」という観念が挟まることはないのだ。身体を洗ったり着替えたり、歯を磨いたりするのと同じように、そこには特別な意味なんて存在せず、ただ人として生きるために必要な作業に等しい。
しかし、気持ちとして問題がなくとも、肉体が必ずしも合わせてくれるとは限らない。何が厄介かというと、同じ食品を体内に取り込み続けることで、いずれアレルギーを発症するのではないかという恐怖がある。もちろん、運が良ければ死ぬまで大丈夫だろう。けれど、どこかで許容量を超えてしまったら、その後の人生では食事に多大なる気を遣わなければならなくなる。本来、どうでもいいからこそ、余計な手間を省くために同じものを摂取し続けているのだ。それを、いちいち身体に害がないか調べて、一食ごとに過剰な意識を払わなければならないなんて、私は耐えられないだろう。
特定の食材が好きだからではなく、コスパ重視で用意するのが簡単だから毎日の食事に設定している。もし駄目になったら別の食材に乗り換えればいい話で、その点は食事が好きな普通の人よりもストレスが少ないはずだ。ただ、そもそも食事自体が面倒なのであって、そこにエネルギーを割きたくないという意識が根底にあるのだから、新たな手間が発生するというだけで私は苦痛を感じてしまう。早く完全栄養サプリメントが開発されて普及しないだろうかと、十代の頃から待望しているのだけれど……まだだろうか。