K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

生存記録(20240414)

あまり喜ばしくない報せが届いた。とある親戚の人間が入院したらしい。もう随分と高齢だから、近親者のほとんど全員が「その時」を覚悟しているとは思うが、様々な手続きなどが必要になるだろうから近しい人間は大変だ。実際のところ、細かい状態については伝えられていないため、どれほど危機的状況なのかは言葉の雰囲気から推測するしかない。案外、平気な可能性もあるけれど、「厳しい」とか「もう会えないかも」といったワードが使われているあたり、そのまま受け取るなら危篤に等しいのかもしれない。個人的な感触としては、十中八九このまま永遠の別れになりそうな気がしている。
本人の体力が数日は保つ前提で、もし私に意志があるのなら、面会の機会を作ることはできる。いきなり都合を付けるのは大変ではあるけれど、生き死にの瀬戸際となれば何よりも優先するのが、おそらく人情というものなのだろう。ただ、私は非常に悩んでいる。というよりも、困っている。だってこれは、まるで私が試されているかのように感じてしまうからだ。「当然、来るよね?」という圧のようなものを、暗に感じ取ってしまう。常識的な普通の感覚を備えていれば、もっと迅速に行動できるものなのだろうか。
いまいち気持ちが向かない理由としては、個人的な関係性の希薄さが挙げられる。これまでの人生において、まったく世話にならなかったと言えば嘘になるけれど、私はほとんど当人との密接な付き合いやエピソードに関する記憶を保持していない。年に数回、平均すると1,2回程度しか会わない相手であり、他愛ない世間話すら余所余所しいまま適当に流すだけだった。たとえば年始のような多くの親族が集まる場において、プライベートな会話を試みるのが難しいのは当たり前だ。しかし、本当にそれしかなかった。家庭環境のせいか、他にコミュニケーションを取る機会に恵まれなかったのだ。私はあの人と、まともに正面から会話をして意思疎通に成功したことはなかったかもしれない。あまりにも形式的な間柄であったせいで、このような事態に至ってもなお、どこか他人事のように思ってしまっている。
そんなわけで、遅くとも週の前半のうちには決断が求められる窮地にあるわけだが、日頃から行動力に乏しい私にとっては余計な負担でしかない。ああ、どうするのが正解なのだろう。