K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

精神的な落ち目は悪いことばかりではない

昨日の記事を読み返してみて思ったことがある。こいつ病んでいるんじゃないかと。
文章から滲み出る陰鬱な空気感、これは一時期、Twitterで意味不明な長文を投げまくっていた頃の、思考力の絶頂期を彷彿とさせるものだ。
私は昔から快活といったような言葉とは程遠い存在だったが、思考の海に沈むことは好きだし得意だった。最近その深海に向けて、徐々に精神が変質しつつあるように思う。

今日もまた、あの感覚をこの手に……

 


他の事象と同様に、精神にも「陰」と「陽」の状態が表裏一体で存在している。*1
「陽」は、体育会系とか陽キャなどの言葉から連想されるように、積極的なコミュニケーションを取るなど溌剌とした気質を備えた状態で、「陰」はその逆に近い状態と言える。

社会生活を送るうえでは、「陰」の状態に長く停滞していると、マイナスの影響を生み出す可能性が高い。言うまでもなく人間社会とは、人と人との相互関係で成り立つ空間だからだ。その役割を十全に担うためには、「陽」の状態が望ましい。その事実は一般社会だけでなく、学校から友人関係に至るまであらゆるコミュニティにおいて、厳然たるものとして横たわっている。

生きていれば、自らを「陽」の状態に持っていかなければならないシーンに何度も出会う。私のように「陰」にこそ拠り所を求める人間は、そのたびに苦悩を余儀なくされてきた。
ただし、思うに「陽」であり続けることが必ずしも正しいわけではない。というのは、「陽」は不断にエネルギーを漏出させる状態でもあるからだ。あまりにも長く「陽」で居続けると、神経をすり減らし、大きな反動が生じることもある。労働に休憩が求められるように、精神状態にもオフが必要だ。
それから、「陰」にだって強みがある。まず、基本的に落ち着きやすく、冷静に状況を見て判断しやすいという性質がある。思慮深くなり、より深いレベルで物事を捉えられるようになる。次なる「陽」を発現するまで、精神力を蓄えることだって可能だ。
どちらも一長一短で、場面によってそれぞれ果たせる役割がある。ちょうど、交感神経と副交感神経の働きのようなものかもしれない。

 

社会人としての強度が高い人間は、この切り替えを効果的に実践している。換言するなら、必要に応じて適切な人間になることができる。その場に相応しい行動ができるということは、周囲からの信頼を集めやすく、結果的に物事が順調に進みやすい。

対人において、感情の機微を掴んで会話を進めることに長けた人間は、「陰」を駆使して相手を見極め「陽」を以て先導する。
人望とか人徳とか、そういった言葉が似合う人というのは、コミュニティの中には一定数いるものだ。彼らは他者から他者へ向けられる期待や注目といったもののほとんどを、少数で吸収してしまう。
だから周辺にいる人間の、そのさらに辺縁に埋没している「陰」の濃度が強い有象無象は、それでも生存するために、ますます光の当たらない生態を獲得していくことになるのだろう。主体的に「陽」の状態を求めていくようにならない限り、陽キャの近くにいる陰キャは、その度合いを自覚的に強めざるを得ない。
もちろん彼ら陽キャは、別に悪いことをしているわけではないのだ。まさに正当な道筋に沿って、人生を進めているだけに過ぎない。

 

私は、自分の性質があまりにも「陽」から遠い存在だった。今でもそうだ。

知人と会うとき、必死になって身体の奥底から「陽」を引っ張り出してくる。会社に出勤するとき、膨大な抵抗を乗り越えて「陰」の隠蔽を試みる。結局、中途半端で理想通りにはいかないのだが、何もしないよりはマシだろうと開き直ることで、どうにか急場をしのぐくらいのことはできている。
ただ結果的に、別れた後や退勤後には頭の天辺から足の爪先まで「陰」に支配される状態に陥ってしまう。これが単なる疲労なら休眠によって回復するが、再び「陽」を取り戻すためには意識して暗晦の世界に沈み込まなければならない。ふらふらと精神を彷徨させるのはストレスの原因となり、やがて心身を蝕み始める。
なんでもない、ただ人と会っただけだというのに、これなのだ。

かつて友人に対して、私が休日にはほとんど外出しなかったり人と会わなかったりすることを、出不精だの引きこもりだのと冗談みたいに語ることがあったのだが、あれは自宅で「陰」の状態に浸っていないと壊れてしまう可能性を危惧し、危機回避として結果的にそうなっているというだけのことだった。
もちろん、友人と会うことは楽しみだ。時間と空間を共有して何かに熱中することは、かけがえのない経験であるし、「陰」とか「陽」とか以前の問題として、元来コミュニケーション不足で友人との交流が少ない私にとっては、最も優先すべき事項の一つと言っても差し支えない。
なお、会社に関しては心から不要だと思っているが。

精神状態の在り方として、なかなか難儀な問題が常に頭の片隅にあるという話である。

 

この数か月、まともに外出ができずにストレスを溜め込んでいる人が多いと聞く。私などは、むしろストレスが減って落ち着いているのだが、そんな状況で始めたブログによって、精神に変化が生じていることに気づいた。
普通に社会生活を送っている間には、すっかりと息を潜めていた「陰」の世界の自分が、ひょっこり顔を見せ始めたのだ。
なんだお前、久しぶりじゃあないか。懐かしいな。元気だったか。

あれは大学生の時分、いつ頃だったろうか。とあるきっかけで精神状態が混沌としたまま過ごしていた期間があった。当時、頭のほとんど中心に近い場所に常駐していたソレは、「陰」が極まったような言葉、文章を量産した。
知人をフォローしないTwitterアカウントを作り、毎ツイートほぼ140字で連投を繰り返した。内容については、後から読み返してみるとまるで理解が及ばない。密度が濃すぎて、人に読ませるものではなかった。
こういう遺物は見ようによって黒歴史にもなり得るが、私はもはや否定しようと思わない。きっとあれは、私の中にある核の片鱗であり、その存在を確認するための証跡でもあるのだから。

 

てっきり、その力は喪われてしまったのだと思っていた。この数年の間、それを意図して引きずり出すことができなかったからだ。いくら書いても、紛い物……というよりは、また新しい形で捻じ曲がった文章を書くようになったものだなと考えていた。
実際には消えたのではなく、眠っていただけなのだと気づくことができたので、これからは見失わないように引き留めておくと同時に、新しい思考スタイルとともに、武器を二つ構えた状態で戦っていけるかもしれない。何と戦うのかって、それは秘密だ。

今の生活は、特段「陽」が必要とされていない。求められるとしても、現状の「陰」を脅かすとは思えない程度のものだろう。であるならば、この甦った「陰」を活かさない手はない。そう思った次第である。

 

しかし、このブログについてはどうするか悩ましくもある。毎回こんな感じでは、書くほうも読むほうも疲れるし、「陰」だって酷使しすぎると精度が悪くなるんだ。
時間と体力の問題になってしまうが、好きなように投稿していたTwitterとは違い、毎日更新というブログの性質上、今回のような水準で安定的に文章を綴ることは現実的な話ではないだろう。
また、こだわりすぎるあまり絵が蔑ろになっては本末転倒なのだし、やはりバランスは絶えず意識すべきところである。

落としどころとしては、今回のように溢れるものが止まらない、そう感じたときに解放する方向性でいこう。

*1:本記事で表現している「陰」と「陽」は、個人の特性を絶対的に位置づけるものではなく、当人にとっての相対的な状態を示すものである。