K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

髪を切ってきた

何度か外には出ているけれど、実質的な引きこもり生活は二か月半も続いている。
筋力が落ちて6%以上の体重を失い、髪は幾分と伸びて、随分と風貌が変わった。
流石に、前髪が目に入るようになってきて鬱陶しかったので、切りに行くことにした。

 

 

朝、9時過ぎの電車に乗った。通勤ラッシュを避けたつもりだったが、時差出勤や時差通学が増えているのだろう。サラリーマンと思しき人や、制服姿の女子学生たちが目についた。
車内は、満員というほど込み合う様子ではなかったものの、乗車率で言えばちょうど100%くらいに見えた。席はすべて埋まるし、つり革を掴んでいる人も相当数、見受けられる。話には聞いていたけれど、ほとんど以前の状態に戻りつつあるようだった。

五月の某日、電車に乗ったときは、七人がけの席には間隔を空けて四人が座り、立っている人は何にも掴まらず、ドアに寄りかかるような感じだったように思う。あれは幻だったのだろうか。後にも先にも、あのような光景を目にすることは、もうできないのではないか。
確かに満員電車は減ったかもしれないが、他者との接触を極力避ける生活を続けていたせいか、たった数人であっても他の人と同じ空間にいること自体が、著しく快適度を下げる。妙に息苦しくて、疲れが溜まる。暗にマスクを強要されているのも気にいらない。外で活動することは、こんなにも大変なことだったろうか。

駅での乗り換え、繁華街の通行、いずれにおいても見知らぬ人のパーソナルスペースに踏み入り、踏み入られ、いちいち意識していると気がどうにかなってしまいそうだ。それは、ウイルスだとか衛生観念だとかいう以前に、私自身の性質が、徹底的に人混みを忌避しようとするものに置き換わってしまったような感覚だった。

 

ソーシャルディスタンスとは、いったいなんだったのか。ニュース番組やSNS、貼り紙などから、しきりに見聞きする言葉ではあったが、いつの間にかピークは過ぎ去ってしまったのではないか。そんな錯覚にとらわれる。ずっと閉じこもっていたから、まるで実感が得られないまま過去のものとなって、私はいつしか自分の生きている世界を見失いかねないと思った。
これは錯覚だ。現実は何も変わっていない。変わったのは大衆意識であって、あるいは雰囲気であり、世論を作り出すものだ。

本当の現実なんてどこにもないのかもしれない。だから私は、私にとっての現実を好き勝手に生きるだけなのだ。せめて、他者に介入を許さないように。迷惑をかけないように。

 

久々に訪れた理髪店では、感染症対策が行われていた。営業するにあたって、なんらかの対策を講じることが、社会的に要請されているのだろう。手間が増えて大変だと思うが、仕方ないのだ。ネガティブな意味での「仕方ない」はあまり好きではない。それでも、これは仕方ないのだと、外に出れば嫌でも教え込まされる。

二月ごろのことだ。そろそろ花粉症の時季ですね。マスク苦手なんですよ。そう話していた理髪師は、しかし現在は我慢してマスクを装着しないと接客することができない。
ずっとマスクをしていると、口の周りが荒れてしまって大変だと言っていた。不織布に隠された口元がどうなっているのか知る由もないけれど、もはや慣れている感じすらあった。開き直っているのかもしれない。ずっとマスクをしなければならないのなら、外見に気を遣う必要なんてない。

一日に何人もの相手をして、手元を動かしながら喋り続ける職業だ。あの人たちは会話がうまい。機転が利くし、以前に話した内容を覚えている。経験則というのもあるのかもしれないが、凄まじいことだ。しかも、話せば話すほど生き生きとして、会話を盛り上げようとしてくる。こちらは別に、終始無言でも構わないだけれど、でもあの人たちと話すのは、不思議と嫌ではない。
私は猛烈にエネルギーを消耗してしまうので、あまり話が長続きしない。だから、理髪師たちのことは会話の化け物だと思っている。もちろん、いい意味で。

 

家族や仕事関係の人間以外と言葉を交わしたのは、前に髪を切ったとき以来だった。
私はコミュニケーション能力が低いという自覚はあるが、久しぶりの雑談は悪くなかった。あの人との会話だけが、私を非日常に連れ出してくれる。わざわざ電車を乗り継いでまで、自宅から離れた店に通うのには、ちゃんと理由がある。数少ない、人の縁だ。

数年前だった。もともとは近所だったのが、別の場所に移ってしまった。新しい店に行ってみて、ゼロから始めることも考えはしたが、やはり説明するのが面倒に思えた。
慣れた相手なら、伸びた分だけ切るよう頼めば、毎回ほとんど同じものが出来上がる。だから、多少の距離なんて、なんでもない。今後も通い続けるだろう。

初めての店だと、どんな仕上がりにすればいいか、というところから入る。場合によっては冊子を手渡されて、イメージに近いものを選ぶよう促される。今風の洋服に身を包んだモデルがポーズを決め、キザな髪形を次から次へと見せつけてくる。そうはならんやろ、というツッコミを思いとどまらせるくらいにキマったそれは、あまりにも自分の求めている姿と乖離していて、うまく選ぶことができない。結局、しどろもどろな説明の末、適当にいい感じで、とスタイリストに丸投げする形になる。仕上がりは運任せだ。
髪を切っている最中も、職業であったり、家族構成であったり、絶妙な塩梅で個人情報を探ってくる。別に知られてもいい情報だから構わない。けれど、そういう形式的な会話自体が、好きではないのだ。会話を膨らませるための前提条件を揃えたいという気持ちは理解できるし、得た情報をしっかりメモしているのを知っているから、二回目からは気楽に通える。ただやはり、初回はどうしても面倒なのだ。

 

帰宅すると、「いい感じじゃん」と家族から言われた。髪の伸びすぎは、本当によくない。見た目の印象を悪くするばかりでなく、視力も落ちるし、洗うのも乾かすのも時間がかかる。
自分で結ぶなり整髪料でまとめるなりすればいいのだが、私はどうにも外見を整えるということに無頓着だ。これまで会ってきた多くの知人は、いつの間にか身につけていたようだったけれど、私はそんなスキルの習得方法を教わった覚えがない。

物事はすべて興味関心次第なのだと、つくづく思わされる。
義務教育で学んでいたことでさえ、好奇心が揺さぶられない分野に関しては、もはや一切の知識を失っている疑いがある。不要な記憶を排除していくという脳の機能が正常に動作している証でもあるのだけれど、突き詰めると、何もかも忘れていってしまいそうな気がして、恐ろしさを覚えるものだ。

 

 

本日の絵

20200618

久々にラフのラフ。胸から上だと短時間ですぐ描けるから、これくらいだったら今の実力でも頑張れば1時間で色までいけるかもしれない。
目の描き方が安定していない気がして、自分の絵柄ってやつに無自覚なんだけれど、他の人から見たらちゃんと個性が表れているんだろうか。